3-6 接待の鬼
堂島エージェンシーの会議室は、浮かない顔の課長以上が雁首を並べ、重苦しい空気に包まれていた。ついこの間までの戦勝ムードが嘘のように払拭され、崖っぷちの焦燥感が彼らを押し付けていた。鶴見惣五郎というたった一人の評論家の存在に大の男たちがこうも頭を悩ませている光景は滑稽とも言えるが、当人たちにとっては死活問題だ。少し前まではさやかのことも、全社が挙って勝利をもたらす女神のように持ち上げていたものだが、今では厄介事をもたらした疫病神のように言う者さえいた。
円卓状に並べられた机の上席には小早川副社長がドンと座っている。まるで高みの見物でもしているかのように、一同を
「だいたいそこまで臆病風に吹かれる必要があるのかね。たかだか評論家じゃないか」
それに対し、広報部長の竹山が答える。
「お言葉ですが副社長、日本のクラシック界では評論家のひとことが大きな影響力を持つものなのです。自分の耳で演奏を吟味出来るリスナーなどごくわずか、そうなると評論家のような道しるべが必要になるのです。ましてや、鶴見惣五郎のような重鎮となると、どれほどその発言が重みを持つことか……」
「だとしても悲観する理由にはならんのじゃないね。グレイス・ニューイェンは君たちが見出した逸材なのだろう。重鎮だろうと公正に判断してもらえれば、自ずと好評は得られるのではないのかね。むしろそれは我が社にとって良い機会だと思うがね」
今度は前田課長が答えた。
「私も最初、鶴見惣五郎氏が評論すると聞いたときはそのように思いました。ところが、鶴見氏はグレイス・ニューイェンの師匠であるルイジ・ベルガミーニを酷評し、あわや演奏家生命が断たれるかというところまで追い込んだ経歴があるそうです。自分がダメ出ししたアーティストの弟子を賞賛することは、ある意味前言撤回に等しく慎重にならざるを得ないでしょう。そうなると匙加減がどうしてもシビアになります」
竹山広報部長が繋ぐ。
「調べたところ、鶴見氏が高く評価するのは半数以下で、これまで鶴見氏の厳しい評価がきっかけで引退を余儀なくされた新人アーティストは数え切れないほどいるとのことです」
小早川副社長は面倒くさそうに受け応えた。
「それなら、その鶴見とやらを丸め込めばいい。接待でもなんでもやりゃあいいじゃないか。いざとなりゃ、ウチの女の子に
小早川副社長は笑いを誘うつもりかハハハと笑うが、むしろ一同の反感を買った。その発言はセクハラを通り越して人権蹂躙ですらある。堂島社長も若干たまりかねて小早川副社長を窘めた。
「小早川君、口を慎みたまえ。最近、世間はそういうことに煩いものだ。われわれが闊歩した時代とは違うのだよ」
だが小早川副社長は非を認めず、反論する。
「あなたがたね、カッコつけすぎなの。もしかして芸術家気取ってる? これね、ビジネスなの! 大変だ、大変だ、と騒いでキレイに解決しようなんて、甘い甘い。とにかく、鶴見氏を接待して忖度してもらう。接待、それしかないでしょ。……堂島社長、そういうことでよろしいですな?」
「う……うむ」
小早川副社長はメインバンクからの出向役員だ。社長以下誰もノーと言えない不文律がある。しかし毎度毎度、現状にそぐわない独りよがりな意見を上から目線で押し付けてくることに、誰もが不満を募らせていた。
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鶴見惣五郎の接待には、営業課の
「矢木、嫌なら拒んでもいいんだぞ」
と言ってみる。しかしさやかは怯む気配すらない。
「いえ、仰せつかったお役目、全うさせていただきますっ!」
さやかの頭の中にはベルガミーニ家の子どもたちの顔が浮かんでいた。一評論家の気まぐれな一言で、彼らの思いを無駄にするわけにはいかない。さやかは身を賭してでも鶴見の説得にあたる覚悟だった。
実のところ、さやかはキャバクラにさほど抵抗がなかった。彼女の友人には客としてキャバクラに行った者も数名おり、特に一条寺若菜は「楽しかった」とさえ吹聴していて、どんなところか興味はあったのだ。
接待当日、さやかは黒田に付き添い、ハイヤーで鶴見惣五郎の自宅に向かった。車が到着すると、既に鶴見氏が門の前に立っていた。
「すみません、わざわざお家の外でお待ちいただいて恐縮です」
「いえいえ、遊びに行くのに家族に見送らせるわけにはいかんでしょう。こちらこそわざわざお迎えに来て下さり、恐縮です」
鶴見氏はそう言って頭を下げた。辛口評論家を彷彿させるような傲慢さは微塵も感じられなかった。しかも、これから女性たちに囲まれようというのに、まるで洒落っ気がない。いかにも高齢者が着るようなグレーのジャンパーにチノパン。髪は頭の頂に少し、そして後頭下半部から長く伸びている。体格はひょろっとしていて、とてもキャバクラに行きたがるヒヒ爺には見えない。
(人は見かけによらないなぁ……)
さやかは心の中でつぶやいた。
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