3-5 帰国

 しばしの沈黙の後、さやかが言った。

「わかってたんですね。私が日本のイベンターであることを……」 

「ごめんなさい。GLSエージェントの方から連絡があったんです。日本公演の依頼に来た女性が来て、マルコが家に連れて行ったと……でも、マルコがとぼけてるものだから、つい私も悪ノリしてしまって」

 グレイスはクスクス笑っている。さやかもその微笑みに付き合った。

「最初、あなたが日本に来ようとしないのは、ルイジさんが日本で酷評を受けてダメージを負ったことで怖気づいているか気兼ねしているのだと思っていました。でも、そうじゃなかったんですね。ルイジさんがあのような状態になって、あなたはこの家から離れるわけにはいかなくなった……」

「その両方です。確かに今の私はこの家から離れるわけにはいかない。だから演奏活動もアメリカ大陸内にとどめています。でもやはり、師であるルイジが潰されてしまった国で演奏するのはとても怖いんです。当たれば大きいけど、下手をすれば演奏家生命に幕を降ろさなければいけない。私にとって、ピアノを弾くことは『芸は身を助く』でとても大切なことなのです。今の段階では、そんな危険な賭けをするわけにはいきません……」

 そう言ったきり、グレイスは押し黙った。重苦しい沈黙が漂う中、ガタッという音がしてルイジが立ち上がった。そして妻アンナに支えられながらゆっくりとピアノに向かった。


 ピアノの前に座るとルイジはカッと目を開き、ピアノを弾き始めた。曲はシューベルトのさすらい人幻想曲。さきほどまでの弱々しい足取りが嘘のように、強靭でスケールの大きい和音が鳴り響いた。ピアノに向かっているルイジはまるで別人のように矍鑠かくしゃくとしている。来日前は圧倒的なテクニックで定評があったそうだが、こうして目の前で見せられるととてつもなく迫力がある。そうかと思えば、まるでバリトン歌手が歌っているような柔らかい旋律線が聴こえてくる。これだけ聴くと、二十数年前の鶴見惣五郎は籠耳かごみみだったのではないかと思えてくる。いつの間にか家族中がピアノの周りに集まって、ルイジの演奏に聴き入っていた。演奏が終わると、ルイジは魂が抜けたようにまた呆然と宙を眺めた。そしておもむろに口を開いた。

「グレイス……」

「はい」と言ってグレイスは背筋を正す。ルイジはその目をじっと見た。

Vaiヴァーイ e superamiスーペラミ(行きなさい。そして、私を超えなさい)」

 グレイスは預言者のお告げを聞くかのように顔を引き締めた。そしてルチアがグレイスの前に出た。

「お姉ちゃん、家のことは私たちに任せて。だから、お姉ちゃんは日本で存分にやって来て」

 すると他の兄弟たちも「そうだ、そうだ」と一斉に言い出した。

「みんな……」

 涙ぐむグレイスに、マルコが言う。

「そうだよ、ゲイワミヨタスクだろ。日本に行って父さんの仇を取ってきてくれ!」

 その発言にグレイスは苦笑しながら、さやかに顔を向けた。

「さやかさん。日本公演のコーディネート、よろしくお願いします」

「ありがとうございますっ。こちらこそ、よろしくお願いしますっ!」

 何度もペコペコと頭を下げる様子が可笑しかったのか、幼いマリオとニーナがケラケラ笑う。それをグレイスがたしなめた。



 アメリカから戻ったさやかを、会社は手厚く歓迎した。何しろ、堂島エージェンシーにとっては油田を掘り当てたに等しい。まさに凱旋帰国であった。

「しかし、まだ成功したわけじゃないぞ。コンサートが無事終わるまで決して気を緩めるな」

 そのように一喝する前田課長ですら頬が緩んでいる。部下の手柄は自分の評価に繋がるのだから無理もない。さやかも調子に乗ってユニクロで買ったジャケットの代金も請求したが、あっさり経費で落ちた。こんなことならもっと高い買い物をしておくのだったと悔やまれた。

 朗報を聞きつけた柿本エージェンシーの加藤からも連絡があった。

「おめでとうございます。私も出来る範囲で協力させていただきますので、何かあればお申し付け下さい」

「ありがとうございますっ。加藤さんのおかげですっ!」


 そんな凱旋ムードに会社中が酔いしれている最中、前田課長が嬉々としてさやかのところにやって来た。

「喜べ、今回のグレイス・ニューイェンのリサイタル、音楽新報でレビューしてもらえることになったぞ! 好評が得られれば我が社の発展にますます拍車がかかるぞ!」

 音楽新報と聞いて、さやかは引っかかった。

「それで、レビューは誰が書くんですか?」

「それが大物も大物、音楽評論家の重鎮、鶴見惣五郎先生だ!」

 鶴見惣五郎……あのルイジ・ベルガミーニを檜舞台から降ろした張本人……浮かれっぱなしの前田課長と対照的に、さやかの顔から血の気が引いていった。

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