3-4 アットホーム
GLSアーティストのビルを出ると、マルコはスマホを取り出してウーバー(一般人の自家用車をタクシー代わりに利用するサービス)で車を呼び出した。すると程なくして、ブルーのニッサン車がやって来た。知らない一般人の車に乗車することにさやかは抵抗があったが、マルコ曰く、ロサンジェルスの移動は旅慣れない人ほど、料金や安全性の面からウーバーがおすすめらしい。乗った車は清潔で乗り心地良かったが、運転手が寡黙で、やや息苦しいムードだった。最初のうちマルコはしきりに世間話を持ちかけたが、あまりにも反応が鈍いので、話の矛先をさやかに向けた。
「あの……さっき僕が暴れてたこと、姉貴には黙っててくれない?」
「……いいけど、どうして?」
「実は僕、ボビナム(ベトナム発祥の格闘技)やってるんだけど、姉貴には内緒にしているんだ。姉貴は暴力を振るう人間を心から軽蔑していてね、日本のことわざで『ゲイワミヨタスク』って言うのがあるんだろ? 自分のなすべきことをしていれば、武力を用いずとも守られる、みたいな。それを姉貴は金科玉条にしているんだ」
アクセントが微妙だったが、しばらくして「芸は身を助く」のことだと分かった。マルコの説明は本来の意味とは若干ずれているが、それはそれで素晴らしい解釈だとさやかは思った。加藤からもらった資料によれば、グレイスは幼少期に親の暴力を常に目の当たりにし、自らも虐待を受けていた。おそらく暴力がトラウマになっているのだろうとさやかは思った。
30分程なくして車はロサンジェルス郊外に到着した。時々ハリウッド映画で見かけるような、閑静な住宅街だ。マルコが向かったのは、その中でも小洒落た水色の一軒屋だった。そしてそのBergaminiと書かれた表札を見てさやかはハッとなった。
「そうか、あなたはピアニストのルイジ・ベルガミーニの息子さんなのね」
「そうだけど、……父がピアニストだったことを知ってる人はあまりいないものだから、少し驚いたよ。昔はそれなりに活躍していたらしいけどね」
その活躍に歯止めをかけてしまったのは日本の評論家だ。そう思うとさやかは少し申し訳ない気持ちになる。
「今、お父様はどうされてるの?」
「……演奏活動はしていない。いや、出来ないと言った方がいいかな」
「それは……」
「どういうことか、入ってみればわかるさ。さあ、どうぞ!」
マルコは家の扉を開けて、さやかを迎え入れた。すると、見覚えのある女性……グレイス・ニューイェンが出迎えてきた。雑誌の写真やYou Tubeで見るよりも、朗らかで家庭的な印象だった。
「おかえりなさい。まあ、マルコのガールフレンド? いらっしゃい、今ちょうど食事の準備をしているところなの」
「そう。さやかって言うんだ、よろしく」
「はじめまして……あの、私はマルコのガールフレンドというわけでは……」
とさやかが言いかけたのを、マルコは目で合図して遮った。一体何を考えているのかと思ったら、「最初からビジネスライクに出会うより、家族に溶け込んだ方が君もやりやすいだろ」とマルコが耳打ちした。グレイスは早々とキッチンに戻った。
リビングに入ると、一人の老人がロッキングチェアーに腰掛けて窓の外を眺めていた。
「さやか、あれが父さんだよ」
さやかは息を飲んだ。たしかルイジ・ベルガミーニはまだ50代だった筈。年の割には随分老けて見える。
「こ、こんにちは、矢木さやかです……」
さやかは挨拶したが、ルイジは反応しなかった。マルコが説明する。
「父さんはね、若年性の認知症なんだ。母さんが父さんの面倒を見て、姉貴がああやって家事を切り盛りしているんだ。……凄いよね。血が繋がっていないのに、姉貴は他の誰よりもこの家族を愛し、尽くしてくれている」
さやかは何と言っていいか、言葉がなかった。大変だ。しかし家庭の中に悲壮感はなく、明るく朗らかな雰囲気が漂っている。そこにキャッキャと叫ぶ声と共に小さな男の子と女の子が転がり込んで来た。
「ああ、弟のマリオと妹のニーナだよ。……ほらおまえたち、挨拶しろ」
すると彼らは「「ハロー」」と行って風にように走り去った。
「ごめんな、躾がなってなくて。あと一人、ルチアという14歳の妹がいるんだけど、日本語で『チューニビョー』って言葉があるだろ、そういう難しい年頃で部屋からなかなか出てこなくてな、もしかしたら今日は会えないかも」
しかし、食事の時間になると、ルチアも部屋から引っ張り出され、家族全員が食卓についた。テーブルの上には食べきれないほどのご馳走が並ぶ。これから世界に羽ばたこうとするピアニストがこれを作ったのかと思うと驚きだ。
「さあ、今日は誰が食前のお祈りをしてくれるのかな?」
とグレイスが訊くと、ニーナがハイと手を上げて祈り始めた。
「かみさま、ごはんをありがとうございます。イエスさまのおなまえでおいのりします。アーメン」
すると、マリオがワァーと泣き出した。
「ボクがおいのりするのにー!」
「わかった、わかった! じゃあマリオもおいのりして」
グレイスがマリオをなだめると、マリオも同じように祈り始めた。
食事が終わると、グレイスが後片付けを始めたので、さやかは「手伝います」と言った。
「大変ですね。こんなに切り盛りされていて凄いと思いました」
「私、この家族が好きだから……」
グレイスはやさしく微笑んだ。そして小さな声でさやかに言った。「さやかさん、本当は私を誘いに来たんでしょう?」
さやかは唖然とした。グレイスにはさやかの意図などお見通しだったのだ。
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