3-3 ロサンジェルス

 ──ロサンジェルスは年中半袖でOK──


 晴れ渡った青い空の下、鮮やかな紅葉の街路樹を見ながら、さやかはネット記事を鵜呑みにしたことを後悔した。ロサンジェルスの秋は……充分寒かった。確かに見渡せば、半袖姿の通行人は少なくない。しかし気温が比較的高くても、薄着で冷たいからっ風に吹かれ続ければ、やがて凍えてしまう。死にはしないだろうが、確実に風邪を引く。

 とにかく上着を調達しなければ……そう思ったさやかの目に入ったのは、「UNIQLO」の看板。アメリカに来てまでユニクロで買い物? と疑問視する声も聞こえそうだが、こういう咄嗟の買い物は慣れ親しんだ店に限る。それはさやかがドイツ留学中に学んだ生活の知恵だった。 

 入店してみると、日本のユニクロより一回り大きい気がした。そもそもアメリカは何もかも日本やヨーロッパより一回り大きい。とりあえず気に入った色のウルトラライトダウンコンパクトジャケットを掴むと、試着もせずにカウンターで支払いを済ませ、それを羽織って店を出た。体が暖まると心にも余裕が出来る。だが、予想外の出費が発生したことでタクシー代は節約しようと思い、メトロで移動することにした。GLCアーティスト・ロサンジェルス支社まで行くにはダウンタウンを通過する路線に乗らなければならなかったが、車内は清潔で不審な人物が乗車してくることもなく、無事に目的の駅にたどり着いてホッとした。

 ところが携帯Wi−Fiの電波状況が悪く、スマホのマップが時折正常に作動しなくなった。気がつけば、壁の落書きやゴミの多い、見るからに治安の悪そうなエリアに足を踏み入れていた。

(まずい所に来ちゃったみたい。早く脱出しないと……)

 そう思った時には、絵に書いたようなならず者たちが、さやかに近寄って来た。叫ぼうと思うが、どういうわけか声が出ない。男たちはホラー映画のゾンビのように迫って来て、その不潔な匂いが鼻をつくほどにまで目前に迫った。

(ううっ、ナムサン!)

 そう思った時、急に目の前から男の姿がパッと消えた。ふと足元を見ると、その男が泡を吹いて地面に転がっていた。何事かと思うと、ひとりの青年──少年とも言える──が何かの武道の構えをしながらならず者たちを睨んでいた。青年はさやかに自分の背後に来るように鼻先で合図したので、その通りにした。若い頃のアンディ・ガルシアに似たイケメンで、さやかは少しドキリとする。

 しばらく睨み合いが続いたが、やがてならず者の一人が殴りかかってきた。すると青年は相手の懐に潜り込んでカウンターパンチを食らわせた。青年はジャケットを着ていたが身のこなしは鳥のように軽かった。そして、ならず者は一発KOで地に伏せる。残りの二名はジャックナイフをポケットから取り出して、同時に襲いかかった。すると青年は高くジャンプしたかと思うと、二人の顔の真ん中に蹴りを食らわして後ろに倒した。後頭部をもろに地面に打ち付けたので、回復は難しそうだ。

「ありがとうございます。……助かりました」

「君、旅行者? 女性一人でこんなところを歩いていちゃダメだよ」

「すみません……でも、旅行じゃなくて、ビジネスで日本から来ているんです」

「そうなんだ。気をつけなよ、日本人狙われやすいからね。特に君みたいに美しい女性は男たちが放っておかないだろうからさ」

 こんな状況で美しい女性と言われ、嬉しい反面、警戒心も生じた。さやかの怪訝そうなまなざしに、青年は慌てて取り繕うように、

「大丈夫、大丈夫。僕は手を出したりしないI'll keep my hands off youから。そうそう、挨拶がまだだったね。僕はマルコ、よろしく」

 と言って握手を求めた。手を出さないと言ったのに……と思いつつ、さやかはマルコの手を握り返した。

はじめましてnice to meet you、矢木さやかです。……実は、GLCアーティストという会社に用があって、行こうとしたらここに迷い込んでしまって……」

「GLCアーティスト!? 奇遇だなあ、僕の姉貴がそこの所属アーティストなんだ。近道知ってるからついておいで」

 どうも調子が良すぎる。姉がGLCアーティストの所属と言うのは本当だろうか、などとさやかが疑問に思っていると、マルコが足早に歩き出してしまったので、さやかはあわててついて行った。まだならず者たちは地面に横たわっており、こんなところに置き去りにされたらたまらない。しばらく歩いても、なかなか治安の悪そうな地域から抜けられなかったが、こんな用心棒が一緒なら心強い。スラム街を抜けると、GLCアーティストのビルはほぼ目の前だった。そこでお別れかと思いきや、マルコは何のためらいもなくビルの中に入り、受付の女性に馴れ馴れしく話しかけた。

「ハロー、キャサリン。元気?」

 キャサリンと呼ばれた女性はあからさまに迷惑そうな顔をした。

「ちょっとマルコ、用もないのに来ないでって言ってるでしょう!」

「違うよキャサリン。用があるのはこちらの方さ。ほらさやか、用件言って」

 さやかは勢いに呑まれそうになりながら、キャサリンに言った。

「はじめまして、日本のイベント会社、堂島エージェンシーから参りました。つきましてはこちらに所属しているピアニストのグレイス・ニューイェンさんに来日公演していただけないかと……」

「その件でしたら……」

 とキャサリンが言いかけた時、マルコが声を上げた。

「なんださやか、姉貴に用があってここに来たの!?」

「……もしかして、グレイス・ニューイェンさんがあなたのお姉さん!?」

 さやかはキャサリンの顔を見た。その表情から察するに、マルコの言っていることは本当らしい。もちろん人種が違うので血縁関係はないだろうが……。

「そういうことだったらわざわざこんなところに来る必要はないよ。じゃあ行こうか」

「え、行くって……?」

「僕たちの家に決まってるじゃん。姉貴と交渉したいんだろ?」

 キャサリンはその様子を見て止めようとしたが、マルコ

はさやかの手を引いて事務所から出てしまった。

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