3-2 ダイヤモンドの輝き

「かなりの酷評ですね……」

「そうなんです。このコンサート評の影響は大きかったようで、それまで録音を聴いて高く評価していた評論家たちも、手の平を返したように手厳しい評価をするようになったみたいです。それから日本国内では完全に干された状態ですね。日本版CDは廃盤となり、それ以降ベルガミーニは来日していません」

「つまり、師匠の黒星がニューイェンさんに二の足を踏ませている……そういうことですか」

「そうだと思います。詳しい事情は依然としてわかりませんが、それが大きく関わっているのは間違いがないと思います」

「加藤さん、もし柿本さんの方でされないということでしたら、……私の方でこの企画を引き継いでもよろしいでしょうか?」

「ええ、もちろんです。私も企画を立てたものの頓挫してしまい、心残りでした。もし矢木さんに受け継いでいただければとても嬉しいです」

「わかりました、不肖矢木さやか、微力ながら尽力いたしますっ!」


 それからさやかはいくつか用事を済ませてから会社に戻った。すると、加藤からの荷物がバイク便で届けられていた。中身はグレイス・ニューイェン来日公演の企画書とそれに伴う様々な資料だった。収支予測や損益分岐点まで算出してあり、ほぼこのままで企画として提出できる内容となっていた。

(すごい……加藤さんって出来る人だなぁ……)

 感心しながら資料を見ていると、その中にグレイス・ニューイェンの来歴があり、さやかは興味を引かれた。



本名:グレイス・ニューイェン=ベルガミーニ

Grace Nguyen-Bergamini

出生名:阮氏恵(グエン・ティ・フエ)

Nguyễn Thị Huệ


 アメリカ合衆国カリフォルニア州オレンジ郡のリトルサイゴンで生まれる。

 出生当時、父親のグエン・ヴァン・タンはリトルサイゴンのアジア食料品店で雇われ店長をしていた。タンは子供の頃、ボートピープルとしてアメリカに漂流し、件の食料品を経営するチャン・クォンに引き取られる。タンが成人すると、知人の紹介でブー・フアンと言うハノイ在住の女性と見合い結婚し、その間にグエン・ティ・フエが生まれた。

 幼少期のフエにとって、グエン家の家庭環境は良好とは言えなかった。両親の夫婦仲は最悪で、毎日のように激しい夫婦喧嘩が繰り広げられていた。育ってきた環境の違い……爆弾や銃弾から逃げまわり、食うか食われるかという過酷な環境を生き延びて来たタンと、比較的裕福で不自由のない暮らしをして来た、都会人のフアンとのメンタリティーの相違はいかんともし難く、水と油のように互いにはじき合っていた。喧嘩が始まると収拾がつかなくなり、あらゆる物が部屋の中を飛び交い、〝流れ弾〟がフエに当たることもしばしばだった。

 その家庭環境の悲惨さは周知の事実となっていた。さらにフエはタンからベトナムの民族楽器ダン・チャインの個人指導を受けていたが、そのレッスンの厳しさは尋常ではなく、手が出ることも日常茶飯事で、四六時中怒鳴り声と鳴き声が外まで響いていた。それが周囲の目からは虐待と見られ、ついにCPS(児童保護サービス)に通報された。調査の結果、劣悪な養育環境と判断されてフエは両親から引き離され、修道院付属の養護施設で保護されることになった。施設では人に対してあまり心を開くことのなかったフエにとって、ピアノだけが唯一心の許せる友だった。そうして毎日何時間もピアノを弾いているうちに、修道院の誰よりも上手く弾けるようになった。誰の目にもその才能は明らかだった。しかし、彼女を有名な教師につけるような経済的余裕はなかった。

 そんな時、チャリティーイベントに訪れたピアニストのルイジ・ベルガミーニが彼女に目を留めた。彼女の演奏を聴いたベルガミーニは言った。

『今に世界中が彼女の演奏を聴いて、僕が今感じている驚きと感動を経験するだろう』

 そうしてベルガミーニは彼女の里親となり、ピアノについて持てるものを余すことなく彼女に注ぎ込んだ。やがて彼女はピアニストとして成長を遂げ、ロサンジェルスでのデビューリサイタルを皮切りに欧米各地で経験を積み上げた。そしてBBCプロムスへの出演でその人気は決定的となり、一躍スターダムにのし上がった。



(なんて壮絶な過去なのかしら……あのまぶしいほど照り輝くピアニズムは、長きに渡る高圧で生成されたダイヤモンドの輝きなのね……)

 さやかは一通り資料に目を通すと、前田課長を呼び出してそれを見せた。

「さすがに柿本さんの企画だな、微に入り細を穿つ出来栄えだ。もしこれが実行できれば我が社の発展に大きく寄与することになるな」

「後は、グレイス・ニューイェンさんを説得出来るかどうかですね……」

「そうだな。埋蔵量は膨大だが採掘が難しい油田だ……矢木、おまえ、掘れるか?」

 さやかはしばし考えてから答えた。

「やります、やらせて下さいっ!」

「よし、クリス・ザイファートを説得出来たおまえの運気に、社運をかけてみよう」

「ありがとうございます!……では早速、ロサンジェルスまで飛んで来ますので、旅費をお願いしますっ!」

「……は?」

「大変なことをお願いするんですから、直接本人に会って話すのが筋でしょう?」

 さやかがグイと迫る。いつになく気圧された前田課長には、もはや反論の言葉が出なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る