3-1 究極のピアニズム

「矢木、これに目を通しておいてくれ」

 前田課長は一冊の雑誌をさやかの目の前に置いた。〝ムジークヴェルト〟、ドイツ、スイス、オーストラリアなどドイツ語圏において隔月で刊行されているクラシック音楽専門誌だ。堂島エージェンシーでは、海外からこうして音楽雑誌を取り寄せて、めぼしいアーティストのスコップ活動を続けている。ドイツ語の得意なさやかは当然ドイツ語雑誌の担当となっている。

 さやかは雑誌を手に取ってページをめくるまでもなく、表紙を飾っている女性に目が止まった。艷やかな長い黒髪に、東洋的な顔立ち。童顔で化粧っ気がなく、それでいてどこか妖艶さを秘めている。しばらくの間、さやかはその表紙をじっと見つめていた。

「おっ、グレイス・ニューイェンか。最近一番の注目株だな」

「高橋さん、ご存知なんですか?」

「ああ、CDも持ってるよ。〝大胆さと繊細さを兼ね備えた、究極のピアニズム〟と定評がある。アメリカ国籍のベトナム系二世らしいけど、おじいさんはダン・チャインの奏者だったらしい」

「ダン・チャインって……?」

「何だ、知らないのか。ベトナムの民族楽器で、日本の琴と似ているが音色や奏法はかなり異なる。ちょっと聴いてみるか」

 高橋はスマホでYou Tubeを立ち上げた。そして、ダン・チャインを演奏している動画を再生した。聞いてみると、確かに日本や中国の琴とはかなり趣を異にしているとさやかは思った。

「なんだか、ピアノっぽいところがありますね……」

「うーむ、その意見に賛同出来るかどうかはともかく、ダン・チャインの素地が彼女のピアニズムを後押ししているのは間違いないだろう。グレイス・ニューイェンの演奏も聴いてみるか?」

 高橋は、グレイス・ニューイェンの弾くバッハ「フーガの技法」の動画を再生した。動画に映る彼女は、ムジークヴェルトの表紙写真よりさらに幼く見えた。しかも演奏姿勢が独特だった。椅子はかなり低めに設定してあり、肘の位置は鍵盤よりかなり下の方にあった。そして、鍵盤の隙間を覗き込むように、顔を鍵盤に近づけていた。まるで楽器と血がつながっているような錯覚……それは一体感というよりは共生と呼ぶ方が似つかわしく思える。地中から同じ養分を取り込み、互いに作用しながら光合成する。そうして放たれる音はとても繊細だった。それはピアノという楽器に張られた鋼鉄の振動ではない……物質の究極の要素である弦が、互いに共鳴し合って音へと昇華している。そして強く優しく、どっしりとした存在感。高橋の言った〝大胆さと繊細さを兼ね備えた、究極のピアニズム〟という謳い文句はあながち間違ってはいないが、いささか軽薄な表現に思えた。

「この人、ウチで招聘出来ませんかね……」

 さやかが言うと、高橋は肩をすくめた。

「いやあ、注目株だからなぁ……どこか大手が既に企画しているんじゃないか?」

「……そうですよね」

 とその時、「いや」と横やりが入った。前田課長だった。

「俺の知っている限りでは、まだ具体的な来日の話は上がっていない」

「じゃあ、今ならウチが招聘するチャンスということですねっ!」

「確かにそうなんだが……実は、柿本音楽事務所が来日のオファーを出していたんだが、結局だめだったらしい。何か、日本に来ることに抵抗があるそうだ」

「何か日本に対して嫌悪感を抱いているのでしょうか?」

「いや、ベトナムはアジアの中でも特に親日度が高い」

「だとすると……いえ、考えてもわからないので、柿本音楽事務所の加藤さんに聞いてみます」

「っておい、向こうにとってウチはライバル会社だぞ。そんな敵に塩を送るようなことするわけが……」

 と前田課長が言い終わる前に、さやかは受話器を取っていた。

「お世話になります、堂島エージェンシーの矢木と申しますが、加藤様はいらっしゃいますか?」

「私が加藤です。矢木さん、その節はお世話になりました」

 電話口に加藤麻衣子が出たことでさやかは少しホッとする。その節とは、もちろんレナ・シュルツェの件だ。

「いえいえ、……ところでお伺いしたいことがありまして、ちょっとお時間いただけないでしょうか?」

「それでしたら、ちょうど私も御社の近くに用事がありますので、直接会ってお話しましょうか」


 それから一時間後、さやかと加藤は飯田橋にあるホテルの喫茶室で落ち合った。さやかは待ち合わせ時間より5分早く入店したが、加藤は既に窓側の席に座っていた。喫茶室は侘び寂びを基調とした中庭に面しており、それを眺めている加藤の様子は、まるで俳句でも練り出しているかのようだった。

「すみません、だいぶお待ちしました?」

「いえいえ、私もさっき来たばかりです。それに私、ここで時間を過ごすのが好きなんです。最近のオシャレなカフェって、何だか落ち着かないいんですよ……」

「それは私も同感です」

 さやかも相手に合わせて苦笑した。もっとも、さやかにはここでさえ充分オシャレなのだが。

「それで、私に聞きたいことがあるとのことですが、何でしょうか」

「ええと、柿本さんの方で最近グレイス・ニューイェンというピアニストを招聘しようとされたと小耳に挟んだんですけど、何か、日本には行かないと断られたそうで……」

「……もしかして、堂島エージェンシーさんの方で招聘をお考えとか?」

「はい。……本当は競合相手に尋ねるのは筋が違うのかもしれませんが、差し支えのない範囲で事情をお話しいただけないかと……」

「大丈夫ですよ。私どもの方では企画倒れですし、何より矢木さんにはレナ・シュルツェの件でお世話になっていますから……」

「恐れ入ります。それで、グレイス・ニューイェンさんが来日を拒否する理由に何か心当たりはありますか?」

「私も彼女の所属しているGLCアーティスト社に問い合わせてみたんです。でも、個人的な事情については答えられないの一点張りで……」

「そうですか……」

「でも、彼女のことを色々調べたんですが、プライマリースクール(小学校)を出た頃から、ルイジ・ベルガミーニというピアニストの元で内弟子になっているんです。このピアニスト、欧米ではCDが発売されたりしていますが、日本ではあまり知られていないんです。私も知りませんでした」

「ルイジ・ベルガミーニというピアニストも来日を拒んでいたとか?」

「いいえ。実は、ルイジ・ベルガミーニは1995年に一度来日しているんです。色々探して当時の雑誌記事を見つけました。それがこちらです」

 加藤はタブレットを取り出し、記事をスキャンした画像を見せた。そこにはこう書いてあった。




【今月の演奏会より】


──ルイジ・ベルガミーニ ピアノリサイタル──

 於 慶智ホール



 欧米で華々しくデビューを飾り、期待の若手として前評判の高いルイジ・ベルガミーニが初来日した。だが実際に聴きに行ってみると、その期待は見事に裏切られた。

 まず、やたらと音が大きい。テクニックは確かに目を見張るものがあるが、タッチは乱暴で聴いていて耳が痛くなるほどだった。そこには詩情と呼べるものはなく、ただただ機械的。楽曲の解釈も自分勝手で作曲者の意図などまるで考慮されておらず、そもそも音楽に対する敬意も愛情も感じられない。これが歌の国イタリア出身のピアニストなのかと、首を傾げてしまう。


 鶴見惣五郎 記

(音楽新報1995年10月号)

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