第三章 芸は身を助く

3-0 プロローグ

 ベトナム・タイニン省、スエン村 1976年


 

 十六弦の彈箏ダン・チャインを挟んで、まだ幼いグエン・ヴァン・タンを、父親のプクが鬼の形相で見下ろしていた。タンはいつプクの拳骨が飛んでくるかとビクビクしながら、震える手で弦をまさぐった。プクの目がカッと開いたかと思うと、即座に怒鳴り声が聞こえた。

「何だその薄っぺらな音は! 腹に力を入れろ!」

 タンがビクッとなる。弾き直そうとした時、今度は地を揺るがすような爆発音が家の中に飛び込んで来た。

「ひいっ!」

 驚いたタンが手を止めると、プクがまた檄を飛ばした。

「演奏中に楽器の側を離れる奴があるか! 楽士なら槍が飛んできても演奏を続けろ!」

「そんな……」

「日本には『芸は身を助く』ということわざがある。とにかく芸を磨け。そうすれば芸がおまえを助ける」

 理不尽だと思うタンだったが、儒教の色濃い文化圏で父親の言うことは絶対だ。タンは爆弾と父親の両方を恐れながら演奏を続ける。


 この辺りは数年前までゲリラ戦が繰り広げられた戦場だった。戦時中にアメリカ軍がばら撒いた不発弾や、ベトコンが仕掛けたブービートラップが未だに残っていた。不幸なことに華人やカオダイ教徒など、サイゴン陥落で居場所を失った人々は、こんな危険な場所にでも行き着くしかなかった。彼らは自給自足の共同体を形成していたが、開墾作業中の爆発事故が日常的に頻繁していた。それでも生き延びるためには開墾を続けるしかなかった。

 グエン・ヴァン・プクはダン・チャイン奏者としてサイゴンでそれなりに裕福な暮らしをしていたが、戦時中アメリカ軍の慰問演奏などを頻繁に行っていたことで、戦後はベトナム共産党から睨まれるようになってしまった。それで一家全員でスエン村に逃げてきた。しかし……

「こんな危険な場所に、子どもたちをいつまでも居させるわけにはいかないと思う」

 妻シュアンの提案に、プクは不服そうだった。

「ここ以外、どこに居場所があると言うのだ? 国内敵だらけなんだぞ」

「いま、難民船が頻繁に出航しているわ。それに子どもたちを乗せるのよ」

「それはいかん。にわか作りの掘っ立て小屋みたいな船で、いつ沈むかわからないそうじゃないか。その上、海賊の餌食にされて海の藻屑となるのがオチだとも聞く」

「海賊だって人間よ。襲われても情に訴えれば命くらいは助けてくれるでしょ。爆弾が相手じゃ、それも通用しないじゃない……」

 プクは妻に説き伏せられる形で承諾した。


 出発の日、家を出るタンにプクは楽器を持たせようとしたが、それを見たシュアンが目を尖らせて抗議した。

「そんな嵩張かさばるもの持たせてどうするの! 出来るだけ身軽にしないと……」

「『芸は身を助く』だ。これはいざという時、必ず助けとなる」

 口喧しさでは圧倒的なシュアンも、この父性社会では最終決定権は夫に譲らざるを得ない。


 〜〜〜


 タンは家族と別れ、当局の目を盗んで難民船に乗った。見るからに粗末な作りの船は、乗り心地も最悪だった。少しでも波が立つと、船のあちこちがギシギシと軋み、今にも壊れそうだった。嵐など来たらひとたまりもないだろう。誰もが不安な目をしていた。しかしタンは爆弾と厳しい父の稽古から開放されて、ホッとした気分になっていた。


 数日間海上をさまよった頃、遠方から凄まじい速さで近づいてくる船があった。

「海賊だ!」

「逃げろ!」

 船上はにわかに騒々しくなった。難民船は必死に逃げようとするが、船の性能も操縦技術も、遥かに海賊船の方が上だった。まもなく難民船は海賊船に着けられ、カービン銃を手にした海賊たちが乗り込んで来た。リーダー格の男が、カタコトのベトナム語で怒鳴った。

「言うとおりにしろ。抵抗しなければ命は助けてやる」

 それから海賊たちは難民たちから金目のものを物色した。彼らの中で比較的若い海賊が、タンの楽器に目をつけた。

「それは何だ。それをよこせ!」

 ところがタンは咄嗟に楽器にしがみついた。若い海賊は銃口をタンの額に突きつけた。

「早くよこせ、撃つぞ!」

 しかしタンは頑なに楽器を渡そうとしなかった。自分でもなぜそうしているのかわからない。若い海賊が引き金を引こうとした、その時……

「待て!」

 リーダー格の男が若者の肩を抑えた。そしてタンに話しかけた。

「小僧、名前は何という?」

 タンは恐ろしさのあまり、すすり泣くような細い声で答えた。

「グエン・ヴァン・タン……です」

「俺は船長のプルバンドノだ。タンよ、銃を突きつけられても手放さないとは、それはよほど大切なものなのか?」

彈箏ダン・チャインという楽器です。死んでも手放すな、という師匠のお達しで……」

 プルバンドノはニヤリと笑った。ゾクッとするような冷ややかな笑みだ。

「面白い。ならば、その命懸けの演奏とやらを聞かせてもらおうか」

 プルバンドノに言われてタンは演奏を始めた。死に瀕した緊張感と船の揺れで思うように指が運ばなかったが、なんとか間違えずに弾けた。演奏が終わるとプルバンドノがまた話しかけた。

「良い演奏だ、なかなか大したもんだ。そうだ、俺たちの船に乗って楽器そいつを弾かないか。悪いようにはしない」

 海賊と同船することに躊躇う気持ちはあったが、いつ沈むかわからないオンボロ船に乗っているよりよほどましだと思い、タンはプルバンドノの申し出に応じた。実際に海賊船に乗っていたのは数日ほどで、マレーシアに寄港したプルバンドノは知人の船乗りにタンを紹介した。プルバンドノの話を聞いた屈強の大男にギロリと見下ろされ、タンは思わず後退りした。

「タン、こいつは貨物船の船長でジョニ、おまえをアメリカまで載せてくれるそうだ。なに、口は悪いが根は良い男だから安心しろ」

「グエン・ヴァン・タンです。よろしくお願いします」 

「ふん、余計な挨拶している暇はねえぞ。足手まといになるようならいつでも海に突き落とすから、覚悟しろ」

 そう言ってジョニは踵を返し、早足で行ってしまったので、タンは慌ててついて行った。ひとこと礼を言おうと振り返ったが、プルバンドノの姿は既になかった。こうしてタンは新天地アメリカに向かって旅立った。

 ──芸は身を助く──

 タンは数カ月に渡る渡航の中で、何度もその言葉を噛み締めた。

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