2-11 足踏み
それから数日後、東京ヨントリーホールにて、レナ・シュルツェ・ピアノリサイタルが開かれた。白いレースを基調としたドレスを身にまとい、裸足で下手からピアノの方へ歩いて来るレナの姿は、まるで霧の漂う湖上を歩いているようで、神秘的であり妖艶でもあった。些かも雰囲気を損なわず、レナは両手は鍵盤の上に舞い降りた。
ブラームス作曲、六つの小品OP118。静寂を切り裂くようにほとばしる、第一番間奏曲のアルペジオの閃光。しばしの
モーツァルト、シューマン共に素晴らしい演奏だった。アンコールにはリスト「エステ荘の噴水」、ショパンの前奏曲第1番と続き、バッハ平均律クラヴィーア曲集第1巻から第1番プレリュードとフーガで締めくくられた。興奮した聴衆たちが一斉に床を足踏みしたために、まるで地響きが起こったようになった。そうして大盛況の内にリサイタルの幕が閉じ、客席がまばらになった時、調律を担当した
「誰か……誰か、私の後に調律したのか!」
何事かと思ってさやかたちは互いに顔を見合わせた。ちなみに、杵口は先回、クリス・ザイファートにお払い箱にされたので、高橋は特に顔を合わせづらかった。一方、こういう場面に慣れているらしい加藤は杵口に訊き返した。
「私たちの知る限りでは、杵口さんの後は誰もピアノに触れていませんが、どうかしたんですか?」
「そんな筈はない! 本番で弾かれたピアノは私の音ではなかった。誰かが触ったんだろう!」
「そこまでおっしゃるなら、ステージに行って一緒に見てみますか?」
加藤の提案に同意し、一同はステージに上がった。そして、杵口はツカツカとピアノに近寄り、鍵盤蓋を開けるといくつかスケールとアルペジオを鳴らした。
「そんなバカな……元の音に戻っている」
杵口は何度も確かめるように弾き直したが、やはりそれは杵口自身が調律した音だと認めざるを得なかった。
「同じ方が調律しても……演奏家によって音は変わるのではありませんか?」
加藤がそう言うと、杵口はいやいやと言うように首を振った。
「もちろんそういうこともあるが、程度の問題もある。コンサートで鳴ったピアノの音は、明らかに私とは違う価値観や美学によって音作りされたものだったのだ」
「レナさんは……心の中のピアノを弾いていたんです。暗黒の沈黙を払拭してからずっと……」
さやかがそう口添えすると、杵口は眉をひそめた。
「……君は一体何のことを言っているんだ?」
「レナさんは私にこう依頼したんです。エヒトクラングのピアノを弾きたいと。最初は調律の依頼かと思っていたんですが、色々と突き詰めていく内に、局所性ジストニアから回復するための、内面的なピアノを欲していることがわかったんです」
「エヒトクラングのピアノを弾きたい……?」
杵口は蒼白になってワナワナとし始めた。「確かに……レナ・シュルツェはそう言ったのかね!」
「ええ、もっともエヒトクラングというのは渾名で、本名は……」
「蔵野江仁……そうだ、どこかで聞き覚えのある音だと思ったが、あいつだったのか! くそっ、忌々しい! もうこの世界から去ったと思っていたのに……!」
杵口は鍵盤をギャンと乱暴に叩いた。怯んださやかは宥めるように言った。
「あ、でも、引退したのは確かですよ。本人は嫌がっているのを、私が無理やり……」
だが、さやかの言うことなど半分も聞かずに杵口は出ていった。
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翌日、有楽町のパチンコ屋レクサスでは、蔵野江仁が大量の景品を重そうに抱えて交換所に向かった。そして窓口にドサっと景品を置くと、係員がそれを引き取り、替わりに一万円札一枚を差し出した。すると蔵野が抗議した。
「ふざけるな、五万円分はあっただろう」
「残りはいただいておくよ。……報酬がまだだったからね」
ふと窓口を覗き込むと、ドレッドヘアとカラフルなレゲエファッションが見え隠れした。蔵野はフッと薄笑いを浮かべる。
「ほう、周到じゃないか、こんなところに潜り込むとは……」
窓口の向こうからもフフッという声が漏れ出す。
「いい子だったよ、あの子。あんた、本当に会わなくていいのかい? 娘さんのこともちっとは話してもらえるだろうに」
「……娘などいない。何度言ったらわかる」
「はいはい、さようでございましたね。ほら、用が済んだら行っとくれ。次の客が来ちまうだろ」
彼女に言われるまでもなく、蔵野はとっととその場から消えていた。
第2章 おわり
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