2-10 忘れられた笑顔

 レゲエおばちゃんのメモには、「新宿サラン書房」という店の名前と住所が書いてあった。一行は高橋の車、加藤の車の二台に分乗してそこに向かった。到着したのは、新大久保のコリアンタウンの一角だった。韓流ブーム以来ずいぶんと華やかになったこの界隈で、新宿サラン書房の入居するビルは時代に取り残されたように、洒落っ気もなく地味に佇んでいた。さやかたちが店に入った時、店主は何やら熱心に祈っていた。ワイシャツにループタイを締め、灰色のカーディガンを羽織ったその姿は、先ほどのレゲエおばちゃんのド派手さとは対照的に、いかにも地味な優男という感じだった。最初は気づかって祈りが終わるまで待とうとしたが、あまりに長く続くので、とうとう加藤が声をかけた。

「あの……レナ・シュルツェさんのピアノがあると聞いたんですけど……」

 すると、店主は立ち上がり、出口を指差して歩き出した。一行は促されるまま店主についていった。店主は階段を上り、二階の部屋の鍵を開けた。そして身振り手振りで皆に入るよう指し示すと、また階段を降りて行った。


 高橋が電灯のスイッチを入れた。すると、部屋の中央に一台のグランドピアノがあるのが見えた。かなりの年代物で、ところどころ装飾が施してある。

「ずいぶん格調高いピアノですね……」

 加藤がピアノのあちこち見て回った。「Th・シュタインヴェーク・ナハフォルガー……19世紀末頃に作られたようですね。クララ・シューマンが所有していたのと同じピアノのようです。きちんと調律もされています」

 レナもピアノに近づき、ポロンポロンと鳴らしてみた。

 そしてゆっくりと椅子に腰掛け、ピアノを弾き始めた。曲はブラームス「六つの小品」の第2番間奏曲インテルメッツォ。それを聴いた一同の脳裏に、先ほどプラネタリウムで見たバート・イシュルの光景が浮かんだ。

「素敵……なんて素敵な体験なの」

「古ぼけた雑居ビルの一室が、風光明媚な保養地に様変わりだな」

 レナはさやかと高橋の会話などまるで聞こえていないかのように、どっぷりとピアノの世界に入り込んでいた。ブラームスに続いてモーツァルトにシューマン……その場にいたさやかたちの心象には、ピアニストだけに見ることを許された光景が映し出されていた。レナは開かれた目で見た光景を、音楽を通して周りの人に分かち合っている。あたかも、彼女を蝕もうとしていた暗黒の静寂に、光を照らしているかのように。そしてその演奏は生命感にあふれていた。……いやむしろ、この世での生を全うし、天上で歌うように神秘的で気高く、荘厳だった。


 二時間に渡るレナ・シュルツェの自発的なコンサートも終わり、さやかが部屋の鍵を返すために再び店舗に入ると、店主はまたもや祈っていた。もしかしてあれからずっと祈り続けていたんだろうか……と疑問を抱きつつ、さやかは声をかけてみた。

「あの……終ったんですけど……」

 しかし店主はまるで聞こえないのように祈り続けていたので、さやかは仕方なく鍵を店主の横の机の上に置いて、おじきだけして店を出た。


 町を歩くと、さやかも知っているK-POPの曲が流れていた。レナは嬉しそうにそれに耳を傾ける。

「わぁ、聞こえる、聞こえる!」

 無邪気にはしゃぐレナを見て、さやかたちは微笑ましい気持ちになったが、レナが突然「みんなでカラオケに行こう!」と言い出して一同は面食らった。でも、せっかく快方に向かったレナの運気を損なってはならぬと、みなレナに付き合ってカラオケボックスに入った。

 さやかは内心、レナがどんな素敵な歌をうたってくれるのかと期待したが、レナのレパートリーは、なぜか昭和のド演歌ばかりだった。しかもどちらかと言えば陰鬱な歌詞と曲調が多かったのだが、歌い終わった後、彼女はとても愉快そうにケラケラと笑うのであった。それを見たさやかは、最近自分はこんな風に笑った事があっただろうかと、我が身を振り返ってみた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る