2-9 アプフェルシュトゥルーデル

 さやかは高橋と一緒に郊外のとあるプラネタリウムに来ていた。以前、堂島エージェンシーのイベントで借り切ったことがあった。その時に懇意にしていたために、色々と融通が効く。まもなく柿本音楽事務所の社用車がやって来て、マネージャー代行の加藤麻衣子とレナ・シュルツェが降りてきた。さやかは彼らにまず一礼した。

「わざわざ遠方まで足を運んでいただき、すみません」

「いえいえ、……でも、ここで一体何があるんですか?」

「ちょっとお見せしたいものが……今日は私たちの貸切になっていますから、遠慮なく」

 さやかは一同を  館内に案内した。彼らが席に着くと照明が消え、やがて上映が始まった。すると、彼らの頭上に澄み切った青空が広がった。それを見たレナが目を輝かせた。

「きれいな空……どこの空かしら?」

「オーストリアのバート・イシュルです。ザルツブルクにいる友人に撮影してもらって、それをここのスタッフの方に編集していただいたのがこの映像です」

「バート・イシュル……ブラームスの療養地……」

 映像の空に向けられたレナの顔が明るくなった。輝くような、というよりは灯籠に火を灯したような、ほのかな明るさだった。


『貝殻の内側のように清白で艶やかな空は、薄紫色のきらめきで磨かれ、永遠なる暗がりの銘打つ真珠色の帯がもつれてはほぐれる』


 さやかはカール・ヴュルト=ブラームスの一文を思い出した。目の前に広がっているのは、まさにそんな光景だ。しかし、これを見て果たしてレナの心にピアノは現れるのだろうか。ふとレナの方を見やると、満足そうな笑みを浮かべていた。これはいけるかと思いきや……。

「加藤さん、やっぱり今回のリサイタルはやめようと思うの」

 レナのあまりに唐突な発言に、加藤は顔を引つらせたまま言葉が出ない。さやかも同様だった。高橋がどうにか口を開いた。

「シュルツェさん、それはあんまりじゃないですか。矢木はあなたのために必死にやって来たんですよ!」

「……さやかさんには感謝してる。だから、たくさんお礼したい。……本当は私、もうダメだって分かってた。だけど認めたくなかったから悪あがきしていたのね。でも、さやかさんがここまでしてくれて、ようやく認めることが出来た。さやかさん、ありがとね」

「レナさん……」

 さやかの目が潤んできた。それはレナ・シュルツェというピアニストの灯火がまもなく消えることに対してなのか、彼女の力になれなかった悔しさに対してなのか……ただ無性に悲しかった。

 とその時、館内の照明が再び灯された。急に明るくなって眩んだ目が慣れてくると、彼らの真ん中に一人の女性が立っていた。ふくよかな体型、ドレッドヘアにカラフルなレゲエファッションと場にそぐわぬ出で立ちで、否応なしに目を引いた。

「さあ、お茶の準備が出来たわよ。いらっしゃい」

 四人は互いに顔を見合わせた後、突然現れたレゲエおばちゃんについて行った。そして案内されたのは館内の喫茶室だった。四人が席につくと、レゲエおばちゃんは四人分のカップとソーサーを置き、ポットのお茶を注いだ。それは独特の香りを持つフレーバーティーだった。

「いい香り……」

 続けてアプフェルシュトゥルーデルというパイ菓子が供された。上にはアイスクリームがたっぷりとのせられている。

「これは……」

 レナが一口食べて驚きの表情を見せた。レゲエおばちゃんは満足そうに微笑んだ。

「ホルスタインのミルクで作ったアイスクリームよ。シュレスヴィヒ・ホルシュタインの遊牧場のこと、少しは思い出したかしら?」

 レナは頷いた。レゲエおばちゃんは続けて問いかける。

「美味しい? ……甘いものは心を落ち着けて目を開くのよ。自分の痛みばかり見ていたら素敵なものも何も見えないわ」

 レナは幼児のようにニッコリとし、夢中でアプフェルシュトゥルーデルを食べた。そして食べ終わった後、ポツリとつぶやいた。

「何だか……ピアノ、弾きたくなっちゃった」

 さやかは加藤と明るい顔を見合わせた。そして、レゲエおばちゃんは一枚のメモをレナにそっと渡した。

「ここに行ってみなさい。……あなたのためのピアノがあるから」

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