2-8 症例
御子柴は、休憩室で高橋の示した動画をじっくりと見た。そして、何度か見終わった後、見解を述べた。
「……おそらく彼女は、局所性ジストニアだと思います」
「「局所性ジストニア!?」」
「人間の筋肉は脳からの指令により動きますが、局所的に筋肉がその指令を無視して動かなくなる、あるいは全く違う運動をしてしまう……そんな症状です。身体的理由、心因性と様々ですが、おそらく彼女の場合は心因性でしょうね……」
「どんな解決策がありますか?」
「ジストニア自体、不明な部分が多いので個々の患者さんに寄り添って解明していくしかありません」
やはり、レナ本人を説得してここに連れてくるしかないか……とさやかが思った時、御子柴が書棚から古い学術誌を取り出した。
「実は、彼女が局所性ジストニアだと思ったのは動画を見たからではありません。この論文を見て下さい」
その論文は、ローゼンクランツ研究所の博士研究員・馬場崇によって書かれたもので、タイトルは「あるピアノ学生における局所性ジストニアの症例」とあった。
「この論文によれば、患者はピアニストを目指して本格的に学んでいる14歳の少女で、デュッセルドルフ在住のL・Sさんとあります……」
「もしかして、この患者はレナ・シュルツェさん……!」
「ええ、そう思います。この論文の発表時期を考えれば、今のレナ・シュルツェさんの年齢と合致しますしね。もしそうだとすれば、彼女は以前にも局所性ジストニアを発症していたことになります」
「それで……その時はどうやって完治したんですか?」
「論文によれば、心理療法や鍼灸治療など様々な療法を試していたものの、なかなか成果が上がらなかったようです。そんなある日、友達のお父さんが有名なピアノ調律師で、彼女はその人に調律をお願いしたそうです」
うそ、蔵野さん、子供いたんだ……とさやかは驚く。今の彼には家族の気配など全くないが……人それぞれ事情もあろう。御子柴は話を続ける。
「しかしその人は忙しくて調律に来れず、かわりに一通の手紙を送ってきた。その手紙にはブラームスが書いたという手記が添えられており、彼女はその内容に心打たれた。学校の教師にそれを見せたところ、その手記に書かれている場所はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州のとある遊牧場だろうと言うので、実際にそこに出掛けてみた。すると、森羅万象の奏でるシンフォニーが聞こえ、彼女の心の中に一台のピアノが現れた。彼女はそのピアノを心で弾きながら、森羅万象のオーケストラと共演した。それ以来、局所性ジストニアが発症することはなくなった……とこんな感じですね。私もこれを読んだ時はとても驚いて深い感銘を受けたんですよ……だからずっとこの論文のことは覚えていました」
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さやかの頭の中で点と線が繋がった。あの茶封筒の中身は、レナが少女時代に蔵野から受け取ったものだった。彼女の言うエヒトクラングのピアノとは、かつてシュレスヴィヒ・ホルシュタインの遊牧場で心の中に現れたピアノだったのだ。
「だけど……どうやったらまたそのピアノが彼女の心に現れるのかな。まさかシュレスヴィヒ・ホルシュタインまで行くわけには行かないし……」
さやかが帰りの車中で独りごちていると、高橋がボソッと言った。
「シュレスヴィヒ・ホルシュタインとは限らないんじゃないか?」
「……え?」
さやかはふと、資料を取り出してみた。今回のプログラムにはブラームス六つの小品がある。その作曲背景をスマホで調べてみた。
──晩年、親交のあった愛弟子、エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクが他界し、その悲しみから逃れるようにバート・イシュルへと出かけた。そこは時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世が〝地上の楽園〟と呼んだ風光明媚な療養地であり、ブラームスはそこでこの六つの小品を作曲した。この曲集は、敬愛するクララ・シューマンに捧げられたが、彼女はその三年後に天国へ旅立ち、ブラームス自身もその後を追うように翌年に天国へ旅立っている──
これを読んで、さやかは以前に見た夢を思い出した。アルプスに囲まれた湖に忽然と現れたパレード。そしてレナやクララ・シューマンたち。あれは天からのメッセージだったのか。……ブラームスもバート・イシュルの空を見上げて、天国の音楽を聴いたのかもしれない。それをいそいそと譜面に書き留め、作り上げたのが〝
さやかはザルツブルクにいる一条寺若菜にLINEを送った。
[ごめん若菜、お願いがあるの!]
そして五分経った時に返信があった。
[お願いって何?]
さやかは待ってましたとばかりに凄まじい勢いで入力する。
[今からバート・イシュルってところまで行ってきて欲しいの。多分そこから車で1時間ほどだと思うんだけど]
[えええ? それはまた急だなあ]
[無茶言ってるのはわかってる。だけど人助けなのよ]
[で、そこに行って何をして来たらいいの?]
[若菜の携帯、パノラマ動画撮れたよね。それでバート・イシュルの空を撮ってきて欲しいの]
[わかった、やってみる。でも帰国したら何か美味しいものご馳走してよ。……ザッハトルテだシュニッツェルだソーセージだって言っても、やっぱり日本の食事が最高よ。ああ、早く帰って美味しいものたくさん食べたい!]
早くもホームシックなのだろうか、若菜の最後の叫びには切実なものを感じさせた。
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