2-7 暗黒の静寂

「何も聞こえないって……」

 それならどうやってこの会話は成り立っているのだろう。彼女は聞こえないのに、どうやって私の言うことを理解しているのか、とさやかが疑問に思っていると、レナはそれに答えるように言った。

「聞こえないと言っても、聴覚障害というわけじゃないの。あなたの話していることはわかるし、町の喧騒だって耳に入ってくる。だけど、さっきみたいに音楽に心を寄せようとするとね、私の中は静寂でいっぱいになるの」

「静寂?」

「そう、暗黒の静寂。だから、あの人のピアノを弾きたいの。暗闇を照らす光が必要なのよ」

「それはつまり、蔵野江仁の調律したピアノですか?」

 レナは答えなかった。まるでがそれを阻んだかのように。


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 翌日、さやかは別のイベントで日野のショッピングモールに出向いた。そこで新しく開講される、ヴァイオリン教室の講師陣によるデモ演奏が、催事スペースで開かれるためだ。イベントのコーディネートは高橋が担当しており、さやかもアシスタントについていた。

 出社するや否や、さやかは高橋の車に乗り込み、日野へと向かった。カーラジオからは、オールディーズばかりをかける番組が流れていた。

「高橋さん、こういう音楽も聴くんですか?」

「いや、偶々つけたらやってたんだけど、……変えようか?」

「あ、別にイイです……」

 変えたいと言えば、またクラシックでもかけるに違いない。音楽と一緒に高橋の薀蓄を聞かされるよりは、このままがいい。そのうち、さやかの良く知っている曲が流れた。サイモン&ガーファンクルのサウンド・オブ・サイレンスだ。

 とその時、あるフレーズがさやかの耳に止まった。

「あ、高橋さん、今のところ巻き戻しして下さいっ!」

 高橋は笑った。

「巻き戻しって、カセットテープかよ! っていうかラジオだからリピート出来ないよ」

「あ、そうか。じゃあネットで歌詞検索してみます……」

 さやかはスマホでサウンド・オブ・サイレンスの歌詞を検索してみた。

「あった! 『Fools’ said I, ‘You do not know Silence like a cancer grows(愚か者よ、おまえは知らないのだ、静寂が癌のように蝕むことを)』、これですよ!」

「はぁ?」

「レナ・シュルツェさんは暗黒の静寂によって癌のように蝕まれているんです、だから爆音みたいな音楽すら聞こえない……」

 高橋は運転していたため、前を向いていたが、その顔が刹那硬直するのがさやかには見えた。


 イベントが終わってフードコートでティータイムをしていると、高橋がタブレット端末を取り出して言った。

「実は、俺もレナ・シュルツェに関して気になることがあったんだよね……」

 そう言って動画サイトにアクセスした。レナ・シュルツェが演奏する、バルトークのピアノ協奏曲第一番第三楽章だった。

「比較的最近の演奏なんだけど、……ここのところ聴いてくれ」

 高橋は早送りしてその部分を再生する。さやかにはよくわからなかったが、高橋が説明する。

「ここのところ、フレーズがまるまる飛んでるんだ。もう一度再生するぞ」

 さやかは目を凝らして見た。よく見ると、レナは弾こうとして鍵盤の上に手をかざしているが何も弾いていない、そんな箇所があった。

「これって……」

「単なるミスタッチにしては様子が変だ。思い過ごしかと思っていたけど、おまえのサウンド・オブ・サイレンスの話を聞いて確信したよ。彼女、何か演奏家生命にすらかかわるような爆弾を抱えている」

「そんな……どうしよう」

「知り合いにアレクサンダーテクニークの資格を持っている、音楽家専門の理学療法士がいるんだ。彼に一度、この動画を見てもらおう」

 その理学療法士・御子柴浩史みこしばひろしのクリニックは吉祥寺にあった。高橋は電話でアポを取り、早速行ってみることにした。

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