2-6 パンク
「抽象的っていうか、ワケわかりませんね……」
「著者は旅先でエデンの園のような場所を見つけ、そこから見た空の描写している。そして森羅万象に耳をすませると、鳴り止まぬシンフォニーが聞こえた……そんなところだ」
「……蔵野さんて、案外ロマンチストですね」
「私が書いたわけではないだろう。ブラームスがロマン主義者だったからそういうスタイルで書かれているだけだ」
「そういえば、今回のプログラムにブラームスの曲があります。六つの小品OP118ですね。ちなみに他にはモーツァルトのイ短調のソナタにシューマンの幻想小曲集……」
「ほう、しばらく会わないうちに、音楽に詳しくなったようだな」
「会社からクラシック勉強しろってうるさく言われてますんで……」
「それは難儀だな。音楽も教養として強要されるのは辛いものだ」
……いや、そのダジャレを強要される方が辛いんですけど、という言葉をさやかは
「辛くないと言えば嘘になります。でも、おかげでレナ・シュルツェさんの演奏に巡り会えたので……彼女のピアノは、今の私にとってはなくてはならない存在なんですっ!」
さやかがそう言うと、蔵野はまた立ち上がった。
「結局、行っちゃうんですか?」
「レナ・シュルツェは私のピアノを弾きたい……そう言ったんだな?」
「ええ、そうですけど」
「おそらく今の彼女には私のピアノは弾けないだろう」
「はあ? ワケわかりません!」
「彼女自身の問題だ。もし彼女自身が
まるで煙に巻かれたように、さやかの思考はつかみどころを失った。蔵野はいつの間にかいなくなり、テーブルの上には茶封筒が置かれたまま残されていた。
スターバックスを出て、さやかは空を見上げる。
──貝殻の内側のように清白で艶やかな空は、薄紫色の
あの文書の下線部を思い出してみるが、東京の空は日本特有の湿気と排気ガスが混じり合っていて、とても精白で艷やかとは言い難い。
(いったい彼女は、あの一文で何を感じ、何を伝えようとしているのだろう……)
会社に戻ると、エントランスのスペースでレナ・シュルツェが待っていた。今回はゴスロリ風ではなく、奇抜なパンクファッションに身を包んでいた。さやかの姿を見つけると、無邪気に手を振った。
「レナさん……また、斬新な格好で……」
「フフフ、かわいい?」
さやかは頷いてみせたが、本音を言えば、ティラノサウルスやトリケラトプスの方がよほどかわいい。
「あ、ちょうどさっき蔵野さんと会って、レナさん自身が
レナは答えずにしばらく考え込んだ。そして突然「渋谷行こ」と言った。
「渋谷!?」
いったい渋谷のどこへ行くのかと思ってついて行くと、クラブ・コステロというライブハウスだった。扉を開けるとアルコールと煙の混ざった匂いが鼻先をついた。中に入ると、レナと同じような奇抜な服装の若者で溢れていた。髪も奇抜な色、奇抜なヘアスタイル。まるでこの前見た夢に出てきた、パレードの電飾のようだった。普段もこんな髪のまま社会に出ているのだろうか、と疑問に思う。
やがてステージに上がってきたのは、客よりもむしろ地味なファッションに身を包んだ若者たち。ドラマーがスティックでカウントすると、次の瞬間、凄まじい爆音が響いた。いや、音と言うより周期的に襲ってくる気圧と言った方が正しい。もはや人間の可聴域を越えて、耳で聞くよりも身体で受け止めるものになっている。ボーカルも何やら叫んでいるが、メロディーはなく、まるで聞き取れない。観客たちは音楽(?)に合わせて手を振り上げたり、踊り狂ったりしている。気をつけないと、ぶつかって怪我をしそうだ。
ふとレナを見ると、周りとは対象的に微動だにせずに、ただジッと立ち尽くしていた。まるで水族館でウミガメの産卵を観察しているかのように、ステージ上のバンドマンを見つめていた。
ライブハウスを出ても、さやかの耳鳴りは止まず、身体は異様なバイブレーションに覆われていた。ところがレナの方は、何事もなかったようにしれっとしている。
「レナさん、あんな大音響を聞き続けて平気なんですか?」
「音楽……そんなに、うるさかった?」
「いや、うるさいなんてもんじゃないでしょう。鼓膜どころか、身体までぶっ壊れるかと思いましたよっ!」
するとレナは、少し悲しそうな目をさやかに向けた。
「私は、……何にも聴こえなかったわ」
さやかは耳を疑った。レナは冗談を言っているのかと思ったが、彼女の目は嘘をついていなかった。
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