2-4 先行き

 アルプスに囲まれた湖のほとりでくつろいでいると、一条寺若菜が採りたてのマンゴーを皿いっぱいに載せてきた。

「どう? いいところでしょ?」

「うん、来てよかったわ」

 さやかは自分でも恥ずかしくなるような大胆な水着姿で、ラウンジチェアに腰掛けながらマンゴーを頬張る。

「おいしい!」

 聞こえるのは木の葉が風に揺れる音と、小鳥のさえずり。時折水辺でチャプチャプと鳴っている。

「静かだなぁ……」

 そう思っていると、山の向こうから天空の要塞のような雲がむくむくと湧き上がり、さやかの方に迫ってきた。やがて騒々しい音楽が聞こえたと思ったら、博多どんたくのような山車のパレードが一列に並んで雲から出て来た。山車という山車には繁華街のような派手な電飾が施されていて、見ていると目がチカチカした。

「何なの、これ!?」

 先頭の山車が通り過ぎると、クリス・ザイファートが道化師になって曲芸をして見せた。それが終わるとフロレスタンとオイゼビウスによるシュプレヒコールがあり、その後でレナ・シュルツェが現れ、クララ・シューマンのピアノに合わせて踊りだした。パレードの人たちはみな裸だったが、邪気というものがなく、禁断の実を未だ食さぬ人類の始祖のように、自由に楽しく戯れていた。そんなイノセントな光景に見惚れていると、突然けたたましくベルが鳴った。


☎ピロリロリロリロ


 起き上がったさやかは半開きの目をこすりながら、受話器を取った。

「……はい、八木ですけど」

「もしもし、お母さんだけど。元気でやっとぉと?」

「なんだ、お母さんか……うん、元気でやってるよ」

「忙しくなかと? 仕事ン方は上手うもういっとぉと?」

「大丈夫だよ、もうお母さん心配性なんだから……」

 と言いながら時計をチラッと見てさやかはギョッとした。あわや遅刻という時間だ。「ごめん、もう行かなくっちゃ。切るね」

 受話器を置いたさやかは急いで身支度を整え、家を出た。出勤前に電話をかけてくる母親も母親だとさやかは思うが、おかげで遅刻は免れたのでむしろ感謝しなければならない。


 何とか会社に駆け込んだ時、時計を見ると始業時間ギリギリセーフ。ところが前田課長が苦虫をかみ潰したような顔つきで近づいて来た。

「お客様がお待ちかねだ。一緒に来なさい」

 どうやら小言ではないとわかってホッとしたが、またレナ・シュルツェが来たのかと思って面倒くさい気持ちになった。ところが、応接室で待っていたのは黒髪にポニーテール、紺色のスーツを着た女性だった。

「お待たせしました、こちらが矢木さやかです。矢木君、こちらは柿本音楽事務所の加藤さんだ」

「突然お邪魔してすみません。加藤麻衣子と申します。レナ・シュルツェの日本国内でのマネージメント代行をさせていただいております」

 加藤の立ち居振る舞いは育ちの良さを感じさせた。良家のお嬢様が音大を出て、柿本音楽事務所に就職したのだろうと、さやかは勝手に想像した。

「実は、レナ・シュルツェが矢木さんを訪ねたと聞きまして、やってまいりました。不躾ですが、彼女は矢木さんにどんな話を持ちかけてきたのでしょうか?」

 その時、前田課長もさやかをチラッと見た。言葉には気をつけろという警告だ。

「勝手に接触してすみません。レナ・シュルツェさんはエヒトクラング……本名蔵野江仁という調律師を探して欲しいと言われました。以前にお世話させていただいたピアニストから私のことを聞いたようです。でも、お断りしようと思っていたので、どうかご安心下さい」

 すると加藤は慌てたように手を振った。

「いえいえ、お断りなさらないで下さい。むしろ、私共の方からもお願いしたいと思います。どうか、彼女のためにその調律師を手配していただけませんか?」

 さやかは前田課長の方をチラッと見た。課長は了解だと言うように黙って頷いた。

「わかりました。何とか連絡を取ってみます」

「ありがとうございます。……実は、レナ・シュルツェともなかなか連絡がつかなくて困ってたんです。来日公演に備えて練習用のスタジオも押さえて、スタインウェイD型まで入れてたんですよ。それなのに彼女、ちょろっと弾いて『これ、弾けない』って言って出ていってしまったんです。それ以来、スタジオにも現れないし、携帯は電源を切っているし……このままだとコンサートも中止になりかねません。でも、もしエヒトクラングさんという方にお願い出来れば……活路が開けると思います」

 加藤は深々と頭を下げた。さやかも任せて下さいと胸を張りたかったが、何分敵はあの蔵野だ。先が思いやられ暗澹たる気持ちになった。

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