2-2 来客
同じベートーヴェンのピアノコンチェルトでも、第五番の皇帝では最初からピアノが華麗に登場する。ところが第三番はピアノの出番まで結構待たなければならない。それはピアノしか興味のない人間にとっては本来なら退屈な時間だ。
ところが、さやかは全く退屈していない。それどころか、胸躍らせながら画面を見ていた。というのは、出番を待っているレナ・シュルツェの一挙手一投足が、妖艶で観る者を惹きつけてやまなかったからである。彼女は驚いたことに、靴を履いていない。まるで大地に根を張り、音楽という養分を吸い寄せて花を咲かせているようだった。
やがて強靭なフレーズでピアノが登場する。男性的な響きを持ちながら、打鍵の度に色香がほとばしる。さやかは女というものが、ピアノを弾くことでかくも美しくなれるのかと思わされた。
「私……これ……好き」
さやかはまるで初恋でもしたかのように、レナの演奏に聴き入った。
翌日、会社に行くと高橋から「ちゃんと音楽聴いたか?」と尋ねられた。さやかは「はい」とだけ答えた。ちなみに昨晩、ベートーヴェン三番以外にもちゃんと〝ノルマ〟はこなしてあった。
「どれかいいのあったか? 感想言ってみろ」
「ええと、……モーツァルトのディベルティメントが、爽やかな感じで良かったです」
「おいおい、小学生の下手な読書感想文かよ。もっと気持ち入れて聴いてみろよ」
「……すみません」
もちろん、レナ・シュルツェのベートーヴェン三番のことなら、話したいことがいっぱいあった。しかし、それをこの場で高橋に伝えるのはどうしても憚られた。気軽に好きだなんて言えないほど、さやかはレナ・シュルツェの演奏が好きになってしまった。それは少女時代、好きな男の子のことを、恥ずかしくて友達に打ち明けられなかったことと似ている。そう、好きすぎて他の人に話すのが恥ずかしいのだ。
時々高橋は、やれマーラーやらブルックナーの何番が好きだとか、鼻高に言うことがあるが、今のさやかに言わせてみれば、それは本当に好きなのではない。高橋は小難しい音楽が好きだということで、自分のインテリジェンスをアピールしている気がした。
それからというもの、さやかの頭の中はレナ・シュルツェでいっぱいになった。家でも外でも彼女の動画を再生し、CDも購入した。明けても暮れてもレナ・シュルツェ。そしてさやかはまるで恋に溺れる乙女のように、ボーッとしていることが多くなった。
当然のことながら、それは仕事にも影響した。異変に気づいた高橋は、さやかを会議室に呼び出して問い詰めた。
「おまえ、最近何か変だぞ。もしかして好きな男でも出来たか?」
「……え」
さやかはさっと顔を赤らめた。
「図星かよ……」
「あ、でも、男……じゃないんです」
「そ、そうか。でもまあ恋愛対象が異性だろうと同性だろうと俺は構わないと思うぞ。ただいずれにせよ仕事に支障をきたさない……」
「いえ、そういうのじゃないんです!」
「そういうのじゃないって、どういうの?」
さやかはあの晩、レナ・シュルツェを聴いてすっかりハマってしまったことを話した。ところが高橋が馬鹿にした口調で「レナ・シュルツェねえ……俺はベートーヴェンが網タイツ履いたみたいでちょっと気持ち悪いけどな……」
「……ひどいっ! 人の好きなものをそんな風に言うなんて、サイテーですっ!」
と、さやかは怒って出て行こうとしたので高橋は慌てて引き留めた。
「ご、ごめん、俺が悪かったよ。……でも、そういうことなら、しばらくレナ・シュルツェに集中しろ。特別好きな作曲家や演奏家が現れたら、それをとことん聴き込むのも勉強だと俺は思う」
「ありがとうございます!」
助かった……とさやかは思った。レナ・シュルツェの演奏はどうしても聴きたかったが、それに加えてクラシック鑑賞のノルマをこなすのはキツかった。これからしばらくは大好きなレナ・シュルツェだけ聴いていれば良い。そう考えただけでさやかの心は浮き立った。
とその時、ひとりの女子社員が会議室に入って来た。
「お話中すみません。矢木さんにお客様がお見えになっています」
「……私に?」
来客なんていったい誰だろう、とさやかは疑問に思いながら、階下のエントランスに降りて行った。何人かの人が待合席に座っていたが、その中でひとり際立って目を引く女性がいた。……それもそのはず、上から下まで紫一色のゴシック&ロリィタ風ファッション、顔は白塗りメイクに服の色と合わせた紫色の口紅とアイシャドウ。周りの人達はチラッと彼女を
やがてゴスロリ娘とさやかの目があった。そして立ち上がるとさやかに近づいて来てグイと顔を近づけてきた。
「あなたが矢木さやかさん?」
「そ、そうですけど。どちらさまですか?」
すると、ゴスロリ娘は少し顔を離して会釈した。
「私はレナ・シュルツェ。さやかさん、あなたにお願いがあって来たの」
さやかは耳を疑った。何が起こったのか、良く状況が飲み込めずに、呆然と立ち尽くしていた。
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