2-1 ノルマ
クリス・ザイファートのコンサートから数ヶ月だった。矢木さやかは正社員として堂島エージェンシーに無事採用となり、学生気分とは程遠い社会の荒波の中に投げ込まれた。
だが、初めからイベントプランナーとして即戦力となれるほど甘くはなく、先輩社員である高橋元のアシスタントをしながら地道に仕事を学んでいった。もともと偉そうだった前田課長や高橋の厳しさはさらに増し、事あるごとに叱られる毎日だった。クリス・ザイファートのコンサートの成功で自信を持っていたさやかであったが、そんな
そんなある日、大学時代の友人、一条寺若菜から久々に会わないかと誘われた。彼女は今も就職口が見つからずにいたが、裕福な家庭の後ろ盾があって、悠々自適なニート生活を送っている。
その週の金曜日、さやかと若菜は飯田橋の居酒屋で落ち合った。
「「かんぱ〜い」」
生ビールが並々と注がれたジョッキとジョッキが軽やかにぶつかり合う。さやかは喉の渇きも手伝って、一気に半分飲んだ。
「さやか、酒強くなったねー。さすが社会人って感じ」
「そりゃ、会社入ったらしょっちゅう飲みに付き合わされるから……特にウチの部署は下戸ではキツイみたい。それにしても、会社に入って身についたスキルが酒の強さだけなんて悲しすぎるわ……正社員になったら、どれだけ自分がドジでノロマなカメかよくわかったわ……」
「『ドジでノロマなカメ』って、ネタが昭和過ぎるよ〜。って言うかさ、今は平成飛び越して令和だよ! ……もしかしてオヤジな上司の影響とか?」
「上司じゃなくて、この前の仕事で究極オヤジな元調律師と関わったんだけど……あのオヤジギャグを思い出すだけで悪寒がするわ!」
と言いつつ、〝ダジャレで内心ウケていたのはダレジャ〟という言葉が脳裏をよぎり、さやかはブンブン首を振った。
「何、どうしたの?」
「ごめん、ちょっと邪気を振り払おうと……」
「あ、そう。色々大変そうだけど、さやかが楽しくやってそうで安心だわ」
「た、楽しく? 全然!」
「だってさ、みんな言うじゃん、『社会人は大変、若菜は気楽でいいね』って。ニートだって肩身の狭い思いで大変なんだから!」
「だよね……」
さやかは頷いたものの、若菜の友達がそう言いたくなる気持ちも理解できた。人間、自由であることがどれほど恵まれているか、それを失ってみて初めてわかる。もっとも人類全体を見渡せば、さやかの不自由など取るに足らぬレベルなのだが……。
「でも、こんな気ままな生活もおしまい。実は、オーストリアでオペアの口があって、打診されてるの。それで来週、早速現地に下見に行くことになったのよ」
「へえ、すごいじゃない! オペアって、ホームステイで子守や家事代行するやつでしょ。若菜、海外で働きたいって言ってたじゃん。願い叶うね!」
さやかたちは国際関係学部の出身だ。当然海外への関心は人一倍強い。
「でもさ……あたし、子供苦手なのよね。それで次の一手が……」
「何言ってんの、若菜だっていつか子供を持つかもしれないんだから、この機会に乗り越えなよ……ところで、オーストリアって言うと、やっぱりウィーンかしら?」
「ううん、ザルツブルクって言う町よ」
「ザルツブルクって、モーツァルトが生まれた町じゃない!」
「へええ、詳しいね」
「うん、仕事上クラシック音楽のこと色々勉強しなきゃいけなくてね……」
さやかは入社以来、前田課長からクラシック音楽についてよく勉強するよう命じられ、高橋がその教育係に任じられていた。高橋はクラシック名曲の〝これだけは聴け〟リストを作成し、毎日3曲ずつその中から聴くよう義務付けていた。
若菜との二人女子会から帰って来ると、さやかは早速パソコンを起動させ、YouTubeのサイトを開いた。今日は高橋のリストの中からベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番「皇帝」を聴いてみることにした。高橋ルールでは、一楽章は一曲としてカウントされる。だから三楽章ある協奏曲は気分的にお得感がある。
検索をかけてみると、「皇帝」以外の協奏曲もリストアップされる。高橋のオススメのピアニストはケンプかブレンデルだったが、最近おっさんの加齢臭に食傷気味なさやかとしては、若さが恋しかった。そうして幾つか物色していると、一枚のサムネールが 目に止まった。レナ・シュルツェという若手の女流ピアニストだった。
さやかの目が止まったのは、ピアニストの醸し出す妖艶なオーラが、画面越しに伝わってきたからだ。彼女は美形ではあるが、芸能界などでは見かけないような不思議な顔立ちをしていた。栗色の長い髪に緑色がかった灰色の目。大和撫子のように清らかで、フランス映画のヒロインのように蠱惑的で……。
(私が男だったら……きっと一目惚れするだろうな。こんな素敵な
しかし曲は高橋リストにないベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番だった。聴いてもノルマ達成には貢献しない。それでも強い好奇心に捉えられて、さやかは再生ボタンを押した。
このワンクリックが、彼女の世界観を一変させることになるとは、この時は思ってもみなかった。
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