1-11 リハーサル
ザイファートは椅子の高さを調整し、ピアノの前で呼吸を整えた。そして今にも弾きそうな姿勢のまま、一分、二分と沈黙が流れた。さやかはその時間が何時間にも思えた。そして……
「やっぱり今はやめておこう。……リハーサルの時に弾かせていただきます。それまでに調律、完了させておいて下さい」
ザイファートはそう言って去って行った。さやかはホッと息をついた。
(……寿命が縮まるかと思ったわ。それにしても高橋のクソ野郎、不採用になったら思い切り張り倒してやるっ!)
さやかは顔には笑みを浮かべつつ、心に憎悪の炎を燃やしていた。
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それから調律も終わり、ザイファートはリハーサルのために再び現れた。蔵野に化けた高橋がその応対をしていたが、事前にさやかから「寡黙な男に徹して下さいっ!」と念を押されていたので、極力発言は控えていた。しかしその分、身振り手振りであれこれ伝えようとするので、かなり不自然であった。それでも下手に爆弾発言などされるよりましだ、とさやかは思った。
ザイファートは、スケールやアルペジオなどで指ならしをした後に再びハイドンを弾き始めた。すると、徐々にザイファートとピアノがしっくりと調和していった。そして、ある瞬間からパッと音色が多彩になった。それはさやかがそれまで抱いていたピアノの音のイメージとは違うものだった。熟しても古びず、慎ましくも芳醇で、時折軽快さを感じつつも、しっかりと地に根差した堅固さ。
(なんて素敵な音……ハイドンって、こんな音だったのね)
さやかはすっかりザイファートの奏でるハイドンの虜となっていた。調律をした立田でさえ、自分が手掛けた楽器から出てくる音の群れに驚きを隠せない表情だ。
第一楽章を弾き終えたザイファートは立ち上がり、興奮して偽エヒトクラングに握手を求めた。
「さすがはエヒトクラング! これこそまさにハイドンの音だ!」
偽エヒトクラングは相変わらず不自然な沈黙を保ったまま会釈した。
続いてザイファートは、全く違う調子の曲を弾いた。それはさやかもよく知っているメロディー……リストの〝ラ・カンパネラ〟。先ほどの古典的な響きとは打って変わって新しい、煌びやかな響き。これが同じ楽器から奏でられたとは、到底思えなかった。さやかや立田、そしてホールで作業していたスタッフの誰もがピアノから出てくる珠玉の音群に驚嘆した。そしてザイファートは曲を最後まで弾かずに立ち上がった。
「エヒトクラング、あなたは魔術師だ。僕はこの感動を抱いたまま本番を迎えたい。だからリハーサルはこれで打ち切るよ……」
ザイファートはそう言ってステージを降りた。
それからさやかは自分でピアノを鳴らしてみた。しかし、どう弾いても先ほどのような魔術的な音は出てこなかった。立田はピアノの下に潜り込み、何やら探っていた。
「蔵野さん、もしかして事前にここに来て、ピアノに何か細工しましたか?」
立田の問いかけを聞いて、さやかはやっぱり何か細工があったのか、と思った。何も知らない偽エヒトクラングは、ただ笑ってごまかすしかない。
「私は何もしていない。……これは君の気持ちが産みだした成果だ。今日のことを糧にして、これからも精進したまえ」
よくもまあ、そんな口から出まかせが言えるものだとさやかは呆れたが、指一本動かしたくないと言った蔵野が、事前に何かを仕掛けたとは到底思えない。
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