1-12 ガウクラー
盛大な拍手が止み、シーンと静まり返っても、舞台上のクリス・ザイファートは目をつぶったままピアノを弾こうとしない。
(もしかして、このまま弾かないで終わってしまうとか……?)
さやかがそう案じてしまうほど長い沈黙だった。そして、その静寂を打ち破るような重厚な和音の提示でコンサートは幕開けとなった。ヨーゼフ・ハイドン作曲、ピアノソナタ変ホ長調、
さやかは、リハーサルの時とは比べ物にならないほど演奏が生き生きと躍動感に満ちていると感じた。そして、第三楽章では、もっと新しいピアニスティックな音色が加わった。ザイファートの表情は自信に満ちていて、完全にコントロールしているのがわかった。最後は少しあっさり目に終わり、次曲のメンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソに繋いだ。
休憩を挟んで後半のプログラムは、リストのパガニーニ超絶技巧練習曲全曲だった。改訂前の初版であり、名人ですら演奏は困難と言われている。だが、ハイドンの鬼門を打ち破ったザイファートにとっては、全く造作なかった。
それどころか、ハイドンやメンデルスゾーンとは全く異なる近代的な響きに、聴衆は誰もが驚いた。中にはピアノが替わったのではないかと思う者もいたほどである。全プログラムが終わると、聴衆はみな興奮し、スタンディングオベーションが起こった。
そして二曲のアンコールの後、ザイファートは偽エヒトクラング……すなわち高橋を指差してステージ上に呼んだ。高橋は何ら躊躇うことなく、一礼してステージに上がった。さやかは呆れすぎてもはや言葉がなかった。
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コンサートの後、前田課長がザイファートを招いて打ち上げを開催した。蔵野に化けたままの高橋と立田、それにさやかも同席した。
「「カンパーイ」」
グラスのぶつかる音と共に琥珀色の液体が疲れた喉を通る。あまりアルコールに慣れていないさやかは、グラス半分のビールでクラクラした。そこに前田課長がやって来て、グラスにビールを注いだ。
「おつかれさん。……酒、あんまり強くないのか?」
「すみません。大学でもあまりコンパとか参加しなかったので……」
「ウチの部署は飲む機会が多いからな。……今から鍛えておけよ」
「え……?」
それはつまり採用ってこと? さやかの胸は高鳴る。その思いに答えるように前田課長が言った。
「採用するかどうかは、本来俺の権限で決められないんだが……どうしても必要な人材だ、と上の方には話を通しておく」
「あ、ありがとうございます!!」
と、急に立ち上がって頭を下げたので、アルコールと立ちくらみで、さやかの意識がスーッと薄れていった。
「「や、矢木さん!」」
立田と高橋が慌てて介抱し、さやかは座敷の上に横たわった。
やがて、ザイファートが高橋に言った。
「エヒトクラングさんは僕が
「え? ええ、まあ……」
「ヴァージッツ先生はあの試験の時、こう指示したんです『ブロードウッドを意識しろ』と」
「ブロードウッド……」
「でもそれは間違いでした。ハイドンがロンドン滞在中、イギリスの新興ピアノメーカー、ブロードウッドの楽器に触発されて作曲されたのがあのソナタだという定説に基づいた指導でした。でも、ハイドンの頭の中には慣れ親しんだウィーン式のピアノがあったんです。アニティー文化ホールのベーゼンドルファーは1980年製でアクションも旧式。ベーゼンドルファーは1901年までウィーン式アクションを使用していたので、長い間ウィーン式の性格を保持していました。ハイドンの音を引き出すにはこのピアノが最適だと、エヒトクラングさんは判断したわけですよね……高橋さん」
高橋はギョッとした。
「僕が偽物だって、わかってたんですか……」
「あなたのドイツ語には癖がありすぎる。すぐに高橋さんだと分かりましたよ。エヒトクラングさんはそういうことをする人だってわかっていました。何しろヴァージッツ先生の時もそうしていましたからね」
ザイファートはいたずらっぽく笑った。その笑顔は悪童そのものだ。
「全く……
「ペテンも含めて、エヒトクラングさんのコーディネートは完璧でした。おかげで長い間うなされていた試験落第の悪夢から解放されましたよ。あ、僕があなたがたのペテンに気がついていたことは、フラウ・ヤギには内緒にして下さい」
高橋は愉快そうに頷きながら、ビールを飲み干した。
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そして数日後、矢木さやかは、堂島エージェンシーに正社員として採用されることが、正式に決まった。
第1章 おわり
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