1-10 影武者

「……ダメだ」

 さやかから用件を聞くなり蔵野は無下に断った。「私が立ち会ってとやかく口を挟むより、任せた方が良い結果が出るぞ」

「別に口を挟まなくてもいいんですっ。とにかくいて下されば!」

「言っただろう。私はこの件に関して助言はしてやるが、指一本動かすつもりはない」

「どうして……そんなに頑固なんですか!」

「理由なんていらない。『だって好きなんだもん』でいい……」

「……はあ!?」

「知らないのか、竹中直人の名言だ。ともかく、必要なら影武者でも立てて誤魔化せばいいだろう。どうせ相手は私の顔など知らないのだからな」

 そう言って蔵野は一方的に通話を終了させた。


(影武者……か)


 とりあえず、側にいた高橋に頼んでみたが……

「ダメダメ、俺には出来ないよ」

「でも……ザイファートさんと会う可能性を考えると、ドイツ語出来る人じゃないと……」

「だいたいエヒトクラングとは年齢が違い過ぎるし、そもそも俺はザイファートと面識があるんだぞ」

 そうだった。そのことを忘れていた。ガックリと肩を落としたさやかは、何をしたら良いか思い浮かばず、会社を出て町を彷徨い歩いた。

 とその時、「さやか!」と声をかけられた。振り向くと、見知らぬ少女がそこにいた。

「ええと、どちらさまでしたっけ?」

「やだなぁ、私、若菜よ!」

「ええっ、若菜!?」

 それは、先日タヒチから写真を送って来た友人の一条寺若菜だった。

「全然わからなかった。どうしたの、その顔?」

「でしょ? 品川のメイクサロンに行ってきたんだけど、ドラマで特殊メイクやってた人で、色んな顔が出来るって評判なのよ」

 さやかはその時、はたとひらめいた。

「若菜、その店紹介して!」


──コンサート当日──


 急な会場変更があったにもかかわらず、招待席を除く一般席は全て完売となっていた。

 さやか以外にも堂島エージェンシーのスタッフが幾人か会場に来ていた。アニティー文化ホールには、都心の大ホールのような専属のステージマネージャーがいない。したがって、会場設営のマネジメントもイベントプランナーの仕事となるのだ。

 さやかが客席の清掃状態をチェックしていると、調律師の立田がやって来た。

「矢木さん、おはようございます」

「おはようございます……すみません、こんなに早く来られるとは思わなかったので、ピアノまだ出していないんです」

「ああ、ピアノの出し方は自分でわかりますから大丈夫ですよ。……それより、蔵野さんは?」

 さやかは一瞬息を呑み、「すぐに呼んで来ます」と言ってスタッフルームに入った。しばらくして、さやかは蔵野江仁……の影武者役の高橋を伴って戻って来た。さやかは若菜に教わったメイクサロンで、高橋を蔵野そっくりに特殊メイクを施させた。完璧に瓜二つというわけではないが、本人を知らない人を欺く程度なら全く問題ない。

「今回担当させていただく立田です。よろしくお願いします!」

 立田は高橋扮する偽エヒトクラングにペコリと頭を下げた。

「君が立田くんかね。クリス・ザイファートという有名ピアニストの調律だからね、しっかりやってくれたまえよ」

 高橋が必要以上に尊大に振る舞うので、さやかはヒヤヒヤしたが、立田はさほど気に留めていない様子だ。

「蔵野さん、調律するにあたってアドバイスをいただきたいのですが」

「まあ、有名人相手だからといって気負ってか肩肘張らずに、いつも通りしなさい。ハッハッハ」

 ……有名人だからしっかりやれとか、気負うなとか矛盾してるだろ! とさやかは心の中で突っ込んだ。もちろん顔には出来る限りの作り笑いを浮かべている。

 偽エヒトクラングとの顔合わせが済むと、立田は舞台袖からピアノを引き出し、ステージ中央に設置した。自分で言った通り、その作業には手慣れていた。そして道具を取り出して調律を始めた時、クリス・ザイファートがやって来た。そして、調律している立田に近寄って言った。

「君……随分若いみたいだけど、エヒトクラングじゃないよね!? どうして君が調律している!? また僕を騙したの?」

 ドイツ語で捲し立てられ、わけのわからない立田は怯えた目でクリス・ザイファートを見つめた。

(怒ってる、どうしよう……)

 さやかが戸惑っていると、偽エヒトクラングがヌッとしゃしゃり出て、朗々と声を張り上げた。

「やあ、ベーゼンドルファーはどうだね、!」

 偽エヒトクラングは立田に近づいてその肩をポンと叩いた。当然立田は驚いて声を出ない。偽エヒトクラングは構わずにドイツ語でザイファートに話した。

「この立田君は私の一番弟子でね、珍しいベーゼンドルファーがあるから、触らせてみたんだよ」

「……引退したあなたに、どうして弟子がいるんです?」

「私は今、現役から退いて後進の指導にあたっているわけだよ」

「ああ、そうだったんですか、失礼しました。……それにしても、思ったより饒舌な方なんですね。ヴァージッツ先生はあなたのことを職人肌の寡黙な男だと言っていましたが」

 偽エヒトクラングは反射的に口をつぐんだ。さやかから見て、明らかに狼狽していた。

「ピ、ピアノがあまりにも素晴らしくてね、つい陽気になってしまったのだよ。どうだねザイファート君、君も弾いてみては」

 すると立田が慌てて「調律まだですよ」とこっそり日本語で言った。幸いザイファートには日本語がわからなかったが、高橋の軽率な発言でピンチに陥ったのには変わりない。さやかは胸の内で「弾かないで!」と祈るような気持ちで叫んだが、ザイファートはゆっくりとピアノの前に座った。

(万事休す……か)

 さやかの正社員への期待が、ガラガラと崩れ落ちた。

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