1-9 空約束
若槻楽器は関東一円に支店を持つ大きなチェーン店であるが、アニティー文化ホールとのメンテナンス契約を結んでいるのは糸川店である。
さやかと高橋は、若槻楽器が調律の辞退を申し出た件について話し合うため、再び糸川市を訪ねた。若槻楽器糸川店に着くと、普段アニティー文化ホールのピアノを担当している立田利夫という調律師が出迎えた。
「わざわざご足労いただき恐縮です……」
立田は恭しく応接用のソファーを勧めたが、その青白い細面には、面倒を押しつけられて迷惑だという本心がありありと浮かんでいた。
「いえ、これも仕事ですからお気になさらずに……調律を辞退されたいとのことですが、どのようなご事情でしょうか?」
高橋がそのように切り出すと、立田はその目を相手に向けずに宙を泳がせた。
「最近、クリス・ザイファートが杵口直彦さんをボイコットした事が、我々の業界では話題になっているんですよ。杵口さんと言えば日本、……いや、世界屈指のピアノ技術者ですからね。そんな人にダメ出しするようなピアニストじゃ、こちらとしては対処のしようがないんですよ」
「お恥ずかしい話ですが、それは私の手違いによるものでして、杵口さんの技術力とは全く関係のないことなのです。ザイファート氏は〝エヒトクラング〟という調律師を指名したのに、私の誤解によって杵口さんに依頼してしまったのです」
「エヒトクラング? そんな調律師、聞いたことないですけど」
それにさやかが答える。
「本名は蔵野江仁というんですが、ドイツ語風に訛ってそう呼ばれてるみたいです」
「誰かと思えばあの蔵野江仁さんですか……また厄介なのが絡んでいますね……」
「あの蔵野さんというのは?」
「まあワガママでやることなすこと破茶滅茶でしてね、業界から干されるようにして日本を出て行ったんですが、不思議と向こうの水が合ってたのか、成功したと聞いてます。でも……日本に帰ってたんですか……」
さやかは立田の話を聞きながら、ついウンウンと頷いてしまう。
「でも、ザイファートが蔵野さんを指名したのに、なぜ蔵野さんが調律しないのですか?」
「お願いはしたんですけど、ヨントリーホールからアニティー文化ホールへの変更だけ指示して、『調律は、そのホールの担当技術者がするのが筋だ、引退した技術者の出る幕ではない』との一点張りでして……」
「参りましたねぇ……いつもそうやって周りの人を困らせてるみたいですよ、あの蔵野という人は」
よりによって、なんでそんな曲者をザイファートは指名するのかと、さやかは恨めしい気持ちになる。もっともそんな厄介な案件だからこそ、さやかにお鉢が回って来たのであるが。
「立田さんにご迷惑をおかけすることは心苦しく思います。……ただ、私自身が蔵野さんと会って話してみた印象では、面倒だから仕事を放棄しているわけではない気がします。彼自身の考える最善の形が、アニティー文化ホール担当の立田さんが調律することではないかと思うのです。うまく言えませんが、曲者は曲者なりに神がかったモノを感じるのです」
さやかの弁に熱が入ると、立田も少し譲歩の姿勢を見せた。
「わかりました、私がクリス・ザイファートのピアノを調律しましょう。ただし条件があります」
「……何でしょうか」
「調律、リハーサル、そして本番には蔵野さんが立ち会うということです。ピアニストが指名した技術者がいないんじゃ、ピアノの状態
「……ちょっと待って下さい。本人に確認してみます」
さやかは蔵野の携帯にかけてみた。しかし、何度コールしてみても繋がらない。立田が苛立たしげな表情を浮かべたので、さやかは焦り出した。そしてついに痺れを切らして立田に告げた。
「わかりました。私が必ず責任を持って、必ず蔵野さんが立ち会うよう説得しますっ!」
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