1-8 七転八倒
糸川食品の本社を出た高橋は、車に乗り込むと、ふーっと深いため息をついた。
「まったく冷や冷やさせてくれるよ。結果的には社長がこちらの提案を飲んでくれたから良かったものの、磔の刑の話が出た時には生きた心地がしなかったよ」
「すみません。私、後先考えずに行動に出てしまう傾向があって、それで後になって恐ろしくなるんですけど……ちょうど今、膝がガクガク震えています」
「まあそれもある種の冥利かもしれないけどな。俺には絶対真似出来ないし……」
「私だってそんなに勇気があるわけではないんですけど、ただ、あのザイファートさんが望みを託した蔵野江仁という人物にかけてみたいと思ったんです。きっと何かある気がして……」
それは、さやかが半ば自分自身に言い聞かせていることでもあった。何しろ、最初からペテン宣言しているし、会場を格下の地方ホールに変えろなどと言う。だが、きっと自分の思いを超えた何かが蔵野にはあるのだ……そう思うより他なかった。
東京に戻ると、さやかは会社への報告を高橋に任せた。何かにつけて一言二言嫌味を言いたがる前田課長に話すのが
そのかわり、さやかは蔵野への連絡を試みた。何度も何度もめげずにコールし続けた結果、ようやく蔵野が電話口に出た。通じた途端、すさまじい騒音が聞こえてきた。
「あのー、矢木ですけどぉー」
「☆⁂〆$ちょっと∈⁑〟⊃待て⁑☆∃@静かなところに⊆†♂♀移動する」
やがて騒音は遠ざかり、会話の出来る状態になった。
「……蔵野さん、いったい今どこにいるんですか?」
「昼の仕事だ……」
「その〝昼の仕事〟って何なんですか? 会社で昼シフトには入っていないそうじゃないですか」
「会社まで連絡するとは暇なのか、君は」
さやかはカチンと来た。どうしてこの人は人の神経を逆撫でするような物言いしか出来ないのか。
「蔵野さんが会場変更するよう指示した理由を訊くつもりでした。クライアントを納得させるのに根拠がないのでは交渉なんて出来ませんから……でも結局、先方にはアニティー文化ホールで承諾いただいたんですけど」
「ほう、特に理由を言うことなく、〝会場はこうしよう〟と言って交渉出来たのか」
と、つまらないダジャレに調子を狂わされないよう、さやかは気を引き締めた。
「いくら蔵野さんにコールしても繋がらないので、仕方なく会場変更の理由はこちらで考え出しましたよ」
「ほう、どんな理由だ?」
「『招待客は地元での開催を望んでいる』ということにしました。……実際にヒアリングしてみると、本当にそのような要望があったので、結果的にはよかったんですけど」
「ふん、君みたいな人間でもたまには役に立つもんだな」
またもや憎まれ口。だが、精神衛生上、さやかは褒め言葉と受け取ることにした。
「それと一応、アニティー文化ホールの調律師には、『調律はいつも通りでいい』と伝えてくれ」
「え……蔵野さんが調律して下さるんじゃないんですか!?」
「コンサートの調律は、そのホールの担当技術者がするのが筋だ。私のような引退した技術者の出る幕ではない……では成功を祈る」
「成功を祈るって、ちょっと、ちょっと!」
さやかは引き止めようとしたが、進野は一方的に電話を切ってしまった。
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数日後、さやかと高橋は再び糸川市に赴き、アニティー文化ホールに申し込みに行った。
「突然なんでビックリしましたよ。しかも結構なビッグイベントで……まあ、こんな田舎のホールですから、予約を取るのはさほど難しくありませんけどね」
と、アニティー文化ホールの館長は自虐的な笑いを浮かべた。さやかたちは苦笑しながら調子を合わせた。蔵野はホール担当の調律師にさせるよう指示したので、当日のピアノ調律も申し込み項目に入れた。
ところが、まもなくしてアニティー文化ホールとピアノのメンテナンス契約をしている若槻楽器から堂島エージェンシーに電話がかかってきた。
「ご依頼いただいたクリス・ザイフォートの調律ですが……申し訳ありません、弊社は辞退させていただきます」
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