1-7 直談判

 その翌日、さやかは高橋と共に糸川食品本社を訪ねた。応対したのは広報担当の東海林しょうじ浩志だったが、彼は会場変更の話を聞くと、非常に困惑した顔になった。

「その話はウチとしましては、いただけませんね。そもそも〝創立五十周年記念イベントはヨントリーホールでクラシックコンサートを〟というのが社長の悲願ですからね……」

 高橋は東海林の神経を逆撫でしないよう、言葉を選びながら説明した。

「私共もそのことを念頭に置きながら企画を進めて参りました。ところがご覧の通り、招待客の方々は専ら地元で行って欲しいというご意見でして……」

「勝手にそんな調査をされると困りますよ。とにかく社長の意向を尊重する形で引き続きお願いします」

 まさにけんもほろろという感じで東海林は二人を追い返した。さやかは絶望的な気持ちになった。

「あの東海林って人、社長ラブって感じでキモいですねっ!」

「そう言うなよ。会社勤めって言うのはそんなものさ。失望したかい?」

「失望はしていませんが、やっていける自信はなくなって来ました……」

 さやかが項垂れていると、ふと社長室と書かれた扉が目に入った。さやかはそこで足を止め、扉の前に立った。

「……矢木さん、まさかバカなこと考えてないよね?」

 高橋がおそるおそる尋ねると、さやかはニッコリ笑い、「もちろんバカなことなんてしません」と言って扉をノックした。高橋の顔が青ざめる間もなく、扉がカチャリと開いた。中からは秘書らしき女性が顔を覗かせた。

「どちらさまでしょうか?」

 高橋がアワアワしている間に、さやかが答えた。

「堂島エージェンシーの者です。御社の創立記念イベントの件で、社長さんにお話があったので参りました」

「アポイントはお取りですか?」

「……いえ。実は広報担当の方に会場変更を提案したのですが、『ヨントリーホールは社長の悲願だ』の一点ばりで、これは社長さんに直談判するより他ないと思いました」

「そういうことでしたら……一度アポイントをお取りになって改めておいで下さい」

 そう言って秘書がさやかを追い返そうとすると、部屋の中から渋いダミ声が聞こえた。

「話を聞きたい。入ってもらいなさい」

 すると秘書は恐縮したように扉を開いて二人を中に案内した。社長はそれを引き継ぐように席を勧めた。

「会場変更を提案したいということだが、どういう理由だね?」

 それには高橋が答えた。

「恐れながら招待客の方々のご意見を伺ったところ、ヨントリーホールよりも地元での開催を所望されている節がございまして……」

「地元というと……アニティー文化ホールか。あそこのピアノは古すぎて骨董品のようなものだと聞いているが」

「お言葉を返すようですが、あそこのピアノは地元ピアニストが寄付したベーゼンドルファーで、数十年前のかなり古いものですが、定期的にキチンとメンテナンスされていて状態は良いとのことです。何より、クリス・ザイファートの指名した調律師がアニティー文化ホールのピアノが良いと言っているのです」

 高橋の話には誇張があったものの、案外よく調べてあることにさやかは感心した。しかし、社長は視線を高橋からさやかに移した。

「矢木さんと言ったかな。君は広報課を飛び越えて私のところに話を持ってきた……それが何を意味しているかわかるかな?」

 さやかは何かを言おうとするが、答えが出ない。

「いわば直訴だ。江戸時代なら佐倉惣五郎のようにはりつけの刑だ。それくらいの覚悟を負ってでも同じ提案をするかね?」

 さやかは返答に窮した。気持ちとしては〝もちろんその覚悟です〟と答えたい。しかし、軽々しい決意表明は、かえって不実な印象を与えかねない。

「どうだね? 怖くなったかね。さらに言えば、いざ君の提案通りに進めて失敗ということにでもなれば、君の首一つでどうにかなる問題でもないのだよ。企業イメージは著しく低下し、私の顔に泥を塗ることにもなる。そんな考えもなく自分のアイデアを押し付けるのはおこがましくないかね?」

「おっしゃる通りです……」

 さすがにここまで言われてしまうと、まだ社会経験のないさやかはぐうの音も出なかった。私の負けだ、さようなら、花の正社員……と心の中で嘆いていると、社長がカッカッカと笑い出した。

「ちょっと若い女の子をいじめすぎたかな。よろしい、君の若気の至りに賭けてみよう」

「え……とおっしゃいますと?」

「この件は君に一任する。会場はヨントリーホールからアニティー文化ホールに変更、その線でやってくれ」

 さやかと高橋は起立して一礼し、「かしこまりました」と言って社長室を出た。結果的に交渉は成功したことにはなったが、とてつもない重圧感でさやかの心は押しつぶされそうになった。

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