鳥小路鳥麻呂

 ある夏の暑い日のことである。

 私は、数日前から毎晩のように蚊に刺されていた。それに腹を立て、私は蚊を見つけたら絶対に逃がさぬように慎重に、そして、丁寧に殺した。蚊は、いつも私の座る勉強机の足下の暗闇に羽を休め、私の足に喰らいつくチャンスを窺っていたのだ。私は懐中電灯で机の下を隈なく探し、蚊を見つけては殺した。そうしているうちに、しかし、ある時ふいに思ったのである。

――こんなに蚊を殺してもよいものかしら。

 そして、私は蚊を殺すのをやめた。


 今度は、ペットボトルを用意したのである。これで蚊を捕らえようというのだ。何度か逃げられたが、ようやくそれは成功した。蚊が窒息しないようにきりで穴を4つ開けた。


 翌日、私はそれを高校に持って行った。結局人に見せることはなかったが、話だけはした。

「蚊を飼い始めたのだ。」と私は隣の席の小林に言った。

 彼とは中学校時代からの付き合いで、何でも話し合える仲であった。しかし、感性は必ずしも似ていなかった。私の言葉に対し、彼はいつものように呆れたような笑みを浮かべて私を見た。

「阿呆なのか? そんなものを飼って何になる?」と彼はまるで幼稚園に通う子供にでも話すように言うのだった。

 これはいつものことで、周囲と違うことばかりしようとする私のことを、彼はまるで道化のように思っているのだ。しかし、私は私で必死なのであった。というのも、別段これといった魅力のない私は、道化にでもならなければ到底葉子さんには気付いて貰えないからなのである。


 私が彼女を知ったのは、もう一年と三ヶ月も前のことであった。高校生になり、初めてやって来た教室で私は彼女と出会った。担任が名前を呼んだのに返事をした時の、彼女の透き通る声や立ち上がった時の美しい輪郭、そして、その歩く姿の優雅な気品は、今でも忘れ難い青春の日の情景として我が脳裏に焼き付いている。そして、私は初めて恋というものを知った。それは、どこまでも続く希望と期待との果てしない階段であった。日々は充実し、私の声は魂の声であった。

 ところが、それから生活は見る見る荒廃した。頭の中が彼女のことで一杯になり、いつも物思いに耽っているぼうっとした鈍感な少年に私はなり、成績は地に堕ちた。同時に、私は無駄な努力を次々と始めた。髪にくしを入れたり、昼休みに野球をやったり、彼女の前でドストエフスキーを読んだりした。しかし、どれも無駄であった。目を逸らしたくなるような醜悪さの源泉であるところの病的な怠け癖を、私はしかし、矯正し得なかったからだ。結局のところ、表面上をいくら飾っても愚劣さは臭いで分かるのである。そして、彼女は果たしてこの私になど微塵も興味を示さなかった。私が近付けば近付くほど、彼女は遠くへ離れて行ったのだ。


「蚊を観察するのも悪くないぞ。こうして見ていると、俺たちだってこの小さな蚊と本質的には何も変わらないのだということに気が付く。これは重大な発見だぞ。」と私は言った。

 実は、小林の後ろは葉子さんの席だったのだ。それで、私は彼女に気付いて貰いたくてつい大きめの声で喋ってしまう。時々であるが、彼女は私の言葉に対してたしかに微笑んでくれるのだ。もちろん、私の世間とのズレを半ば呆れての嘲笑であったかも知れない。それでも、彼女が私の存在に気付いてくれるのなら、私には本望なのである。

「口先だけで言うのは簡単さ。」と彼は答えた。蚊になど興味がないのだ。


 次の日、私は蚊を連れて行かなかった。彼女(血を吸うので、蚊は雌だ。)を入れたペットボトルは、私の勉強机の上に置かれていた。若しかしてボウフラが湧くかしらと思い、それを見るためにボトルには数センチの水を入れておいた。

学校では、もう蚊の話はしなかった。


 それから数日、私は蚊を観察する毎日を送った。学校では相変わらずただ一人の女性の行動に一喜一憂し、その瞳にどう映るかだけが問題だった。家に帰れば蚊を見ながら宿題をした。それが終わると、時々歌を詠んだ。稚拙な歌である。そのほとんどは、私の不可能な恋愛に関する悲痛の叫びであった(他に、自己への失望やネクステへの忠誠を詠ったものもあった)。このように芸術の世界に身を投じることで、実質的にはまったく死していたはずの我が恋は、神格化されてかえって死ぬ機会を失ったのだ。

 だから、私は今でも彼女を忘れられずにいる。いつの日か再会できることを夢見、毎日を淡々と生きていくことが、青春の落伍者となった現在の私にできる精一杯の抵抗なのである。


 さて、ある日のことである。

 私がその蚊を捕らえてから、すでに一週間を越していた。ふと見ると、ペットボトルの内側が水滴に覆われ、全体が白く曇って見えた。暑さのせいか、あるいはボウフラ用に入れた水が蒸発したのか、原因はよく分からなかったが、何となく嫌だったので、私は蚊を別のボトルに移した。しかし、それもすぐにそうなった。

 次第に、私は私のしていることが残酷な矛盾に満ちていることを感じ始めた。そもそも、私が蚊を閉じ込めたのは、それを殺したくなかったからではなかったか。しかし、私はこの一匹を捕らえた後、新しく蚊を見つければ、たちどころにこれを殺していたのだ。そして、この一匹はペットボトルに閉じ込め、彼女はこの中で死ぬまで生きていくのだ。それで、私はこんな風に彼女の世界を限定することはもうやめるべきであると思い、その蚊を放してやることにした。


 ベランダに出てから蓋を開けると、蚊は外に飛んで行ってしばらくそこいらをふらふらと漂っていたが、やがて室内に戻って来た。このことは、私を不快にさせた。

机に戻ると、今度は蚊の復讐を恐れ始めた。先ほどまでペットボトルの檻の中で腹を空かせていたであろうその蚊が、今は部屋の中を自由に飛び回っているのだから、いつ刺されても不思議はなかった。だから、蚊を見つけた時、私はつい反射的にそれを両の手で潰してしまった。

「あ。」と思わず声を上げた。

 手の平を見ると、蚊はまだかすかに息があった。私はしばらく数十秒間ぼんやりとそれを眺めた。とんでもないことをしたと思った。しかし、すべては起こってしまった。そして、私はおもむろに立ち上がると、ベランダから死骸を捨てた。


 次の日、私は小林に蚊のことを話した。彼は始終苦笑いをしながら聞いていた。そして、私の話が終わるや否や一気に窘めた。

「お前は病的ナルシシストだな。自分の人生を壮大なドラマとでも思っているようだが、事実はただ目の前の受け入れ難い現実から逃げているだけじゃないのか? 蚊を殺すことくらい誰でもすることだ。その過剰なまでの感受性がお前を滅ぼすことにならなければよいがな。」と彼は言った。

 この言葉は真実であった。情熱が私を破壊したのだ。失ったのは未来だけではなかった。しかし、高校二年生の私にとって未来はどこまでも明るく、日々はそれ自体幸福への不断の接近であった。私は、自分がいつの日か必ず彼女と結ばれるであろうことを信じて疑わなかった。彼が何を言おうとしているのかは何となく分かるような気がしたが、それでも私は気にもかけなかった。結果を知っている今の自分に言わせれば、当時ほど愚かであったことはないと思う。しかし、答えを知ってから非難するのは容易い。何も分からず、あの頃は一所懸命に生きたのだ。若しやり直せるとしたら、やはり同じ道を歩くことになるだろうか。それでもいい。もう一度君に会えるのなら。


 私は俯いて彼女に聞こえるように少し大きめに言った。

「我々の運命もまたあの蚊と同じように、突如襲いかかる宇宙的圧力の前にはまったくの無力だよ。時は残酷に、そして理不尽に流れ、どんなに強固な愛も決してそれを変えられないのだ。それでも僕は信じている。いつの日か、我が眼前に横たわる無数の孤独は、愛という名の大河の流れに合流し、すべての悲しみは幸福の前にひれ伏し、そして私は――」

 頭を上げ、眸を廻らすと、彼女はもういなかった。小林の呆れ切った侮蔑にも似た視線が我に注がれていた。

 私は諦めて切なく微笑むと、休み時間の教室のざわめきに解けていった。


(終わり)

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鳥小路鳥麻呂 @torimaro

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