第12話

 雲に映った影に目を取られていた一瞬、次に目を上げたとき、クィは仰天した。空が、さっきまでの突き抜けるような青から、鮮やかでなまめかしい紫紺へと変わっている。地平線の彼方は緑色に光り輝き、空には星が瞬いている。



 速度七四〇――もういつマシンが壊れても、おかしくない速度だった。それにもかかわらず、計器は絶好調だ。クィは絶対座標値から現在の場所を把握しようとしたが、それは徒労に終わった。位置情報をロストしている。



 目の前にはエレがいる。翅を広げ、飛んでいる。

 眼下に真っ白な氷の大陸が見えた。気温が急激に下がり、頭がじんと一瞬痛むような思いがする。まさかここは極点なのか。そんなはずはない、自分は少なくとも極点からは離れた場所を飛んでいたはずだ――



「みて、クィ! とってもきれい、あれって南極大陸じゃないの?」



 エレは無邪気そうにはしゃぎながら、更に速度を上げた。それに呼応して、ぶわあっと光のヴェールが風になびいて、またクィの視界を遮った。



 それを抜けた時、次に見えた景色は、さっきまでとは明らかに違っていた。雲の下に見えるのは、でこぼこした広大な熱帯雨林。空は、夕陽の色に真っ赤に染め上げられ、まるで世界全体が燃えているかのようだった。地平線はガラスを無理矢理叩き割ったときのように、歪にギザギザとしている。



 それは活火山からずっと連なる山脈だった。



 森のどこかから、獣の雄叫びのような甲高い声が上がると、それに呼応してあちこちで同じ声が上がり、たちまち、自然の雄大なハーモニーとなって空まで響いた。エレは大地が震えんばかりのその声に比例するかのように高く飛び上がり、そのままぐるぐると旋回した。



 クィはこんなに広い大地がこの星に残っているのを見たことがない。いったいここはどこだ?



 エレのほうに気を取られていた次の瞬間にまた景色は様変わりしていた。今度は切り立った断崖の間にふたりはいた。空はまた青く戻っているが、深い谷のような場所、断崖からは木がまばらに生い茂り、谷底には細く緩やかな河が流れている。



 エレはぎゅんと針路を上へ向け、クィも同じようにした。深い谷から飛び出すと、見渡す限りの断崖があちこちにそそり立っている。クィたちが出てきたのはそのうちのひとつだ。地上に巨大な神の槌を振り下ろしたとしたら、こんな風に亀裂が入るのだろう。これは大地に刻まれた傷なのか、それとも大地から隆起した山々なのか?



「ねえ、クィ、ここはどこなの?」

「わからない。こんな場所は、地上でもまだ見たことがない――」

「凄くきれいだね」



 ひゅるるるるる。風を切る笛のような音は、空に巨大な翼を広げる猛禽類の鳴き声だった。

 エレは高度を上げた。クィもそれを追いかけた。速度は機体の限界を越えて、ぐんぐんと上がっていく。速度一〇〇〇が、もう目前まで迫っていた。



「クィ! あなたの飛行翼ブレード、いま、とっても素敵に輝いてるわ!」



 エレの無邪気な声が、高い空にこだました。何回も、何回も反響して、クィの身体を揺さぶった。



「あなたこそ!」



 クィも負けじと、エレに向かって叫んだ。



 上空を飛ぶエレを見上げれば、また、世界は姿を変えていた。真っ黒な空に、きらめく星が無数に浮かび上がる。エレとクィの進行方向に向かって、周囲三百六十度を放射状の光の尾が取り囲んでいて、まるでトンネルのようにふたりを導いていた。



〈ゼフィルス〉から零れ落ちた光の粒が、周囲の光の尾へと吸い込まれて、新たな光へと変わる。時どき、クィの顔にぴしゃりと、雨粒のように光が降り注いでぶつかり、その部分があたたかくじわっと広がる。



 周囲はひたすら漆黒の空間であり、暑さも寒さも感じない。



「ここ――見たことがある、気がする」



 エレは呟いた。



「あの時――雲の中に飛び込んで、計器が壊れたとき……この場所を見ている気がする。星空のなかみたいな、この場所……ううん、分からない。でも、確かに見覚えがある」



 ふたりは光の導くままに、速度を落とすことなく飛び続けた。うっとうしい横風も、海溝から吹き上げる上昇気流も何もない。まるで次元のはざまへとやってきたようだった。



 上下も左右もないこの空間で、クィの視界の、天のほうへと視線をやった。

 そこにはゆらゆらと光が揺らめいていた。真っ黒な空間のさらに天頂では、絶え間なく水面が凍ってはひび割れ、また凍る。それを繰り返している、有機的なゆらぎの隙間から、絶え間なく光が漏れ出していた。それはまるで、海中から空を見上げているかのような、幻想的な景色だった。



 クィは、光の帯の隙間に何か、まったく別の景色を垣間見たような気がした。



 それは、ルナで過ごした基地の風景。



 それは、雄大な海に揺られる船の景色。



 それは、空高く飛び回る鳥たちの視界。



 それは、煌々と燃え盛る火山の灯。



 それは、降り注ぐ流星の群れ。



 それは、一面の氷。



 それは、空を覆いつくす摩天楼の不夜。



 それは、どこまでも広がる砂漠の蜃気楼。



 それは、深淵を臨む銀河。



 不意に、すぐ隣を、エレではない別のなにかが通り過ぎていったような気がした。それは、翼を広げた飛行翼ブレードのような姿をした、淡い光の塊のように見えた。クィの目の前へと躍り出ると、そのまま霧消して消えた。その光の粒がクィの身体を包んだ。



「エレ!」



 クィは、エレの姿を見失って、名前を呼んだ。力いっぱい叫んだ。

 エレの周囲には、もっと多くの光が纏わりついていた。

 ものすごい速さで飛んでいるはずなのに、光の粒が彼女の周りへと収束し、何重もの環となってエレを取り囲み、彼女の通り過ぎた先にソニックブームのような尾を残して、まばゆく輝いていた。周囲の光の尾が、エレに向かって収束していくかのように思えた。



 エレの後ろ姿から、表情はうかがい知れない。

 クィはエレに近付こうとした。力いっぱいスラスタを吹かした。それでもエレに近付くことはできない。メーターはもういっぱいに振りきってしまっていて、自分がいまどれだけの速さで飛んでいるのかすら分からなくなるほどだった。



「エレっ……!」



 必死に手を伸ばしたその時、エレはようやくこちらを向いた。



「クィ!」



 その時、エレの身体が光の粒子になって、ぶわっと霧散した。

 クィの視界は光に包まれた。あらゆるエネルギーが消えて、失せて、自分の身体が解けていくような……

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