第9話

 空高く、どこまでも高く、高く飛ぶ。



 視界に警告が投射される――TOO HIGH HEIGHT――低酸素・低気圧に晒され、ガタガタと翼が震える。生身の人間なら急激な減圧に耐えられず失神しているところだが、全身義体のクィには多少の無理は通る、それでもさすがにこの高度は高すぎるかもしれない、というところまで来たところで、ようやく上昇をやめた。



 眼下には雲海が広がり、水平線は遥か遠くまでぼやけ、もはや空と海の境が曖昧になるほどの高さ。



 エレは空から落ちてきた。真っ直ぐに。ならば、彼女本来の時間と、ここを繋げる手掛かりは、はるか上空にあるのではないかとクィは考えた。しかし、クィの知識を以てしても、時空を超えるなど不可能な理論だ。



 かろうじて実現しうる可能性として、考えられるのは三つほどだ。



 第一は、エレが飛翔のすえに超々光速に達し、相対性理論に基づいて時間軸を歪めた可能性、しかしこれはほぼ不可能だと見ていい。そんなことをすれば生身の身体であるエレはまず無事では済まない。重力に押しつぶされて、身体が粒子に至るまで分解されてしまうはずだ。



 第二に、何らかの要因で突発的に生じたワームホールのような時間のねじれた穴に飛び込んだ可能性。これならいくらか可能性がある。実際、宇宙には似たような場所が何か所か確認されている。が、惑星の重力圏・磁気圏の中で生じる可能性は限りなく低い。



 第三は、エレが何らかの手段でコールドスリープのような状態に置かれ、意識と肉体の変化を経ずに千年以上の時を過ごしたという説。これが最も現実的だが、同様に可能性は低い。人体のコールドスリープの解凍限界は五十年と言われており、それ以降は人体の復元はほぼ不可能だからだ。



 エレがどう考えているかはともかく、彼女がどうやって千年以上の時を越えたのか、そして、時を遡上し、二十三世紀へ戻る方法はあるのか。時空学は専門外の領域だったが、それでもクィはない知識を必死で振り絞って考えた。それでも、はっきりした答えは出せないままだった。



 上空を漂いながら、クィはもやもやした思考を振り払おうと針路を直下に向けた。エレの真似をして、翼を鋭く収斂させ、出力最大で真っ直ぐに地上へと向かう。流星になったように――雲海の中に飛び込み、雲を切り裂き、視界が海に染まってもまだ、まだ、まだ加速を続ける。叩きつける風の感触。義体越しでは、くぐもった雑念にしか感じられない。



「だめだ……」



 クィは海面に身体を叩きつける直前でホバリングし、広い空を見上げ、途方に暮れた。



「わからない。どうすればエレを元の時代に返せる?」



 ひとり言なんて、数十年ぶりに発した。






 島へ戻ってきたとき、エレは〈ゼフィルス〉の翅を広げて太陽に晒しながら、自分は白く細いくるぶしを波にさらして遊んでいた。彼女の足跡が砂に刻み込まれては、波にさらわれて消えていった。



「私のいた時代には、」



 エレは慣れない外国語で挨拶するように切り出した。



「海は汚くて、入れる場所が限られていたの。勝手に入ると皮膚が冒されたりして、重い病気になったりすることもある。こういう、大陸や人間の居住地域からは離れた島の海じゃないといけないの」

「それは相当昔からね。百年前はもっとひどかったわ――こんなに海は青くなかった、もっと濁っていたのよ。けれど『憤怒ラス』が起こって、全てが変わった」

「前も言ってた。『憤怒ラス』って、いったい何? 誰か怒ったの?」

「地球が怒ったのよ。少なくとも、当時の人々はそう感じたの」



 エレはぽかんとした顔でクィを見た。



「大規模な地殻変動、異常気象の発生。巨大な地震と、それに伴う津波の発生。地形の変化。生態系の異常な発達と消滅。活発な火山活動。大気の成分と、水質の変化。オゾン層の再構成。ほかにもいろいろなことが……それらが全て、ほぼ同時に起こったの。地球は、人間の暮らせる環境ではなくなってしまった。『憤怒ラス』は三十年近くも続いた。たったそれだけの期間で、汚染されていた海は浄化され、気候は穏やかになり、動物も植物も豊かに、のびのびと命を育む……本来の青く美しい惑星へと立ち返ったの。代償として人間はすみかを追われた。いわば、地球がとうとう行使した自浄作用」

「それじゃあ、人間はどうなったの?」

「他の場所を求めて旅立ったのよ。地球を見捨てて――いえ、地球に見捨てられて」

「それじゃあ、なぜクィはここに居るの?」

「他に、居場所がないから。生まれ故郷のルナにはもう家族はいない。生き残った人類は、銀河系のあちこちへ移住してしまっている。もし、また社会に復帰したとしても……退屈な仕事を延々とやらされるだけ。ここにいる方がずっと楽しいの」

「私も似たようなものかな。〈ゼフィルス〉は違法な改造をしているし、見つかったら取り上げられて廃棄処分、私も矯正施設行き……それよりだったら、元の世界に戻るよりも、ずっとここにいたほうが気楽かも」



 その言葉にクィは引っかかった。翅を広げ、白砂にオーロラのような色鮮やかな影をうつしている〈ゼフィルス〉へと歩みより、その半透明に透けた翼を見た。



「ね、触ってもいい?」

「いいよ。壊さないでよね」



 クィは指先でそっと翅に触れた。やわらかく柔軟性があるが、肌触りそのものは硝子や石英といった鉱物に近い。つるつるして、なめらかな半透明の物質、しかし、ある程度力を入れても砕けるような脆さはなかった。



 構成は炭素や珪素といった、有機的なものが多くを占めるのだろう。しかし最初に見た印象の通り、クチクラ――チョウやトンボといった虫の翅と、組成は近いように思われる。



 だが、翅を見た時に閃いた、クィの予想は当たっていた。この翅の表面には、あの光の粒子がどこにも浮かんでいない。



「エレ――この飛行翼ブレードを改造してもらったといったわね」



 振り返ると彼女は波打ち際に腰を下ろして、寄せてくる波を爪先で弾いて遊んでいた。



「その時から、この飛行翼ブレードはこんな姿だったかしら? つまり、もともとあった翼と、現在のこの姿――何か変わったところはある?」

「もちろん、何もかも、だよ。最初はもっと機械みたいな感じだった、クィの飛行翼ブレードと同じようにね。改造してもらって、私の手元に帰ってきたときもそんな風だったよ。でも飛んでいるうちに、どんどん姿が変わっていったの。最初はもっと固くて、鋭い翼だったんだけど、いつの間にかそんな風にきれいな翅を広げるようになった。姿が変わるにつれて、どんどん飛びやすくもなっていった」

「まるで蛹の羽化ね――」



 けれどその言葉で、閃きは確信へと変わった。



「あなたが時空を越えられた理由は、きっとこの〈ゼフィルス〉にある」

「どういうこと?」

「私はずっと、何らかの異常現象によって、あなたが未来へ飛ばされたのだと思っていた。でも、そうじゃない。あなたは自分で時を越えたの」

「そんな――どうやって?」



 答えを示すために、クィは自分の飛行翼ブレードを開いた。



「飛べば、きっと分かるわ」

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