第8話
元の島に辿り着いたとき、クィは途方もなくくたびれていた。長らく使っていなかった、錆びついた脳の領域を使ったからだと勝手に自分を納得させた。
クィは夢にも似た、奇妙な模様を見ていた。緑と赤、交互に広がる同心円状の波紋。それを遮るように現れる青い氷山が貫き、そこに黄緑色の三角形がより集まって、ひとつの生命体を作り出す……それは、全身を機械と化したクィには決してみることのできない景色のはずだった。
「あ。起きた?」
真夜中だった。空は真っ黒に塗りつぶされて、星が昨夜よりもずっとはっきりと浮かんで見えた。悪戯っぽく笑うエレは、クィの身体に寄り添うようにして座り込んでいた。月明かりに照らされた一糸纏わぬ姿の彼女の身体が、月明りに白く照らされていた。
「海で身体を洗っていたんだけど、ちょっと寒くて。あなたの身体が温かかったから」
「早く服を着たほうがいいわ。夜は冷える」
「ううん、いい。このままで」
エレは、クィの機械仕掛けの両腕をとると、自分の身体の前へと回した。人工皮膚越しに、彼女の体温が伝わってきた。エレは薄く目を閉じた。深い呼吸に合わせて、薄く膨らんだ乳房が上下した。
「今まで生きてきた中で、最高の一日だった。こんなに自由に、空を飛び回ることができるなんて。ほんとうに嬉しい。でも、ちょっぴり疲れちゃった」
「はしゃぎ過ぎよ」
クィはエレの頭をそっと撫でた。
「あんなに無茶苦茶な飛び方をしたら、脳や身体に負荷がかかって当然。ちゃんと眠りなさい。私と違って、あなたは生身なんだから」
「ううん……あんまり眠れなくてさ」
するとエレは、クィの腕の中で身をよじって彼女の顔を見上げた。細い両腕をクィの首に絡ませて、唇をそっと重ねさせた。
「ね、もうちょっと一緒にいていい?」
クィが答える前にエレはまたキスをした。それから首や頬にも噛みつくようにキスをして、ぎゅっと身体を押し付けた。そのままクィのスーツを開いて身体をむき出しにさせた。
クィの人工皮膚で覆われた女性型の躯が顕になった。エレは指を這わせながら、その感触にいちいち感心したように溜息をついた。
「変な感じ。あなたのこの身体が機械で出来ているなんて、信じられない」
「あなたが生きているよりもずっと、ずっと未来の技術だもの」
「私の時代にも、サイボーグはいたよ……ねえ、クィはどうしてサイボーグになったの?」
「
あちこち錆びついたように軋む関節。それでも鼓動をやめない人工心臓。
何度この身体のことを恨んだことか、クィにはもう数えきれない。
「こうなったのは、私の意志じゃない。私は月面の基地で生まれて……六歳のころにはもう、全身が義体になっていた。月面では、生身のまま生きていくよりも、機械の身体の方が都合がいいから」
「見て、触ったくらいじゃ、ぜんぜん区別がつかない」
エレはクィの心臓に耳を押し当てた。
「どくん、どくんって、心臓の音。これもあなたのものじゃないの?」
「そうよ。人工心臓、だから私が、私の意志で止めない限りは動き続ける」
「もともとの身体が恋しくなったりしない?」
「しない……と、おもう。もともとの身体で生きていたのなんて、ほんの数年くらいのことだし。この身体になってから、もう百何十年も経っている。今さら思い出せないわね」
「そうなんだ」
エレはクィの身体のあちこちを、白い手で撫でまわした。お腹から脇腹、背中、そして乳房。時どき、ぎゅっと手を押し当てたり、人工皮膚を摘まんだりして、まるで遊んでいるみたいだった。
「触られているって、どんな感じ?」
「くすぐったい……かな。神経は通っているから、触られているのは分かる。でも、もうずっと誰かに触れられることもなかったから」
「ねえ、あなたのおっぱいには何が詰まっているの?」
「人工シリコンよ」
「それって、ただの飾りってこと?」
「そう、ただの飾り。でも、これがついていないと、脳が勝手に私の身体を拒絶してしまうの。本来あるべき身体をある程度なぞった造形にしないと、電脳が発狂して義体は正常に機能しなくなる」
エレは自分自身のものより一回り大きなクィの双丘に顔をうずめ、それから乳首に吸い付いた。クィはただくすぐったいと感じるだけで、性的な快感を覚えることはもうない。その感覚がすっかり麻痺してしまっているのだ。
しばらくエレは赤ん坊のように彼女の乳房に甘えていたが、やがて頬を上気させながら、クィの手を取ってぎゅっと自分の胸に押し付けた。俯いたまま、目を合わせようとはしない。
クィは優しくエレの背を抱いて、そっと砂浜に横たえさせた。そして彼女が自分にしたように彼女の頬や首にキスをしたあと、薄い胸を指の腹で撫でたり、乳首に吸い付いたりした。
「あっ、ん……」
エレは自分の指を噛んで声を抑えている。
クィは未熟なエレの陰部に指を這わせ、慣れない愛撫をした。自分で自分のことをそうしたこともないのに、どうしてこんな幼い少女を相手にしているのだろう? ぎこちないながらも、エレの反応や息遣いをうかがいながら、少しずつ、彼女のことをくすぐった。
「んうッ、あ!」
突然びくっとエレが背骨を突っ張って大きな声を上げた。その後、大きく息を吐いてクィに背を向け、身体を丸めてしまった。
「ご、ごめんなさい。痛かった?」
「う、ううん……違います……」
わずかにのぞく彼女の瞳は、涙が滲んでいた。クィの機械仕掛けの心臓に、ざわつく妙な感情が沸き起こった。エレの正面に横たわると、そのまま彼女をそっと抱き寄せた。互いに裸のはずなのに、クィとエレはこんなに違う。自分は彼女とは異なる存在なのだとありありと実感させられた。こうして抱きしめたときのやわらかく、あたたかい感覚はたぶん、エレにとっては固く冷たい機械にしか感じられないのだろう。
やがてエレの荒い呼吸は静かになっていき、落ち着きを取り戻したようだった。
「ありがとう」
「あれで良かったのかな。私、はじめてだったから」
「うん、凄く……その、良かったよ」
エレの声は小さかった。
「ごめんなさい、急に、こんなことをして」
「気にしないで」
しばらく黙ったあと、エレはようやく呟いた。
「ここには私の知っている仲間はいない。私を追いかけるセキュリティもいない……自由に飛べるはずなのに、私、ひとりぼっちだ。だって、それってまるで……みんな、死んで、消えて、無くなってしまったみたいで……」
「みんな、消えて、無くなってしまったのよ」
「なぜ?」
「寿命よ。人間という種の寿命。いつかは滅びてしまうものが滅びてしまった、それだけ」
クィは、エレのいう仲間たちが死んだとは言わなかった。それはもう、とっくのとうに昔のことであり、何百億、あるいはもっともっと繰り返されてきた、当然すぎる出来事のひとつにしか過ぎないからだ。エレを傷つけないために選んだ主語の大きな言葉に、かえってエレは打ちひしがれたような表情をした。
「みんなのいる場所へ帰りたい」
それはエレの本心ではないと、クィは思った。あるいは、本心の一部ではあるのかもしれないが、きっと彼女は矛盾したいくつもの感情を抱えてしまっているのだろうと思った。いまこうして抱きしめている彼女の身体が震えているのは、決して寒さのせいだけではないのだろうと。
恐怖。望郷。寂寥。孤独。
「どうすれば帰れるのか、探しましょう。一緒に」
クィが囁くと、エレの身体がびくっと震えた。
「でも、あなたが帰るかどうかは、それから決めればいい。それまでは私がずっと一緒にいてあげるから、心配することはない」
「ありがとう、クィ」
エレは起き上がって大きく伸びをすると、何事もなかったかのようにあっけらかんと砂浜にまた寝ころんだ。
「星がとってもよく見える。こんなに広く、きらきらして見えるなんて」
「あなたも――星みたいだったよ」
クィがつぶやいた言葉は、エレの耳には届いていたのだろうか。エレは、気がついたら眠ってしまっていた。クィは彼女のスーツを毛布がわりにかぶせてやり、自分もスーツを身に着けると、彼女の傍らに寄り添って目を閉じた。
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