第7話
彼女は急速に上方へと針路をとると、宙返りのように巨大な円軌道を描いてクィの頭上へと飛び上がった。そのままぐるりと、星空の中に溶けていくように、空へ、宙へと飛び上がっていく――クィもそれに倣う。太陽にもかきけされない、わずかな朝の瞬きを目指して、飛ぶ。エレは水平方向に大きく右旋回し、クィはそれに対抗して左旋回する。ふたりの描く半円がそれぞれぶつかり合う交点――かろうじてクィの方が、高い場所を飛んでいた。それぞれが身体を掠め合うように、すれ違う。
今度はクィが右旋回。エレが左旋回。そしてまた、ふたりはすれ違う。空に描かれる二重螺旋の軌道は延々と続いていく。
それを遮ったのはエレの方だった。今まさに何度目かの交点を描こうというところでふいに減速・静止する。クィは、彼女のそばへ近づき、エレが見ているものと同じものを見た。
それは旭日だった。
水平線からみるみる登ってくる太陽。その白い光。揺れる水平線の波と、薄くなびく雲の陰……エレはヘッドギアのシェードを解いた。眩しさと熱に目を細めながら、それでも肉眼で太陽を見ていた。
「きれい……」
高高度でのエレの溜息が、白く空に消えた。
「こんなにきれいな空を見たの、はじめて」
「見たことがないの? そんなに素敵な翼を持っているのに」
「私たちは、無断飛翔を禁止されていたから」
エレは書き消されつつある星空を仰いだ。
「高度五メートルまでは『
エレはまるで、朝日に向かってしゃべっているように続ける。クィはそれを黙って聞いている――スラスタの駆動音と、細い機械の音が心地よい雑音となって響いていた。
「チームを組んでいたの。この翼を、もっと自由に使うために……〈
エレの白い顔が、陽光にきらめいた。
それは涙だった。彼女は泣いていた。
「ここはほんとうに自由な空なんだね。こんな風に高高度から太陽を見ても、誰にも邪魔されない――ほんとうに自由な空」
クィは何も言わなかった。
確かにこの空は自由だ。ほかに誰もいないのだから。監視衛星も、軍隊も、無慈悲に犯罪者を追い立てる治安維持ドローンも存在しない。ただ広い海と、昇りくる太陽、空、星、風……それしか存在しない。
エレは太陽が完全に顔を出し、水平線から離れるまで、ずっとその様子を見ていた。それを見届けると、満足したようにヘッドギアのシェードをかけて翅をひらめかせた。スラスタを吹かして急上昇、そのまま上空でヘアピンターン。空から突然現れたあの時のように、鱗粉のような光の粒子で尾を引きながら、空を切り裂いて海へと突っ込んでいく。
それは、流星のようだった。
あまりにも美しく、真っ直ぐで、クィは後を追うこともできなかった。
海面間際で白波を叩くようにエレは方向転換すると、今度は大きな弧を描いてまた上空へと舞い上がってくる。それはとんでもない速度だった――一七〇、二〇〇、二三〇――どんどん上がっていく。光の尾が、陽光にますます煌めいた。それに見惚れていたクィのすぐそばを、いつの間にか接近していたエレが通り過ぎていった。音もほとんど立てず、後には、切り裂いた烈風と、きらめく光の粒子が残された。
クィもスラスタを吹かした。だが、さっきまでとは違う。エレの後を追うのではなく、エレと一緒に飛ぶ。彼女が空を飛ぶ姿は、ほんとうに楽しそうで、自由だった。真っ直ぐ進んだかと思えば、急に方向を変えたり、どんどん上へ、上へと飛んで行ったかと思えばぴたっとそこで静止し、今度は小さな8の字を描きながら徐々に高度を下げてみたり……
それはルールに縛られない、エレという少女の発露だった。
海面近くから大きく円を描き上昇してくる蝶の翅が見える。エレは、とてつもなく巨大な宙返りをしつつある。海面から垂直に立ちのぼる観覧車のように、円を描こうというのだ。クィはそれに追従するのではなく、それにさらに複雑な軌道を加えようと接近した。
エレの軌道上へと躍り出ると、木の枝と絡み合うツタ植物のようにコイル状の小さな円軌道を描いた。エレは速度を上げると、クィの描く円の中心を真っ直ぐ射抜くように通過した。シェード越しではあったが、クィは彼女と目が合ったように感じた。
エレがひらひらと、花びらが落ちていくような複雑で緩やかな飛行を見せると、今度はクィが彼女を試す番だった。出力を上げ、駆動音が機械の身体によく響く感覚に身を任せる。出力を上げたから駆動音が響くのではない、駆動音が響くことによって自分の身体は前へ、前へと飛んでいく。身体が速度の中へと融けていくような、実に心地よい感覚……
エレは、まるで空間を埋めるように、満遍なく飛び回っている。そこら中に光の粒子が充満している。クィはその、わずかな一点へ向かって飛びこんでいく。まだエレが飛翔していないわずかな空間を貫こうとする。
その直前に、エレが目の前を横切った。ほんとうにわずかな時間差……ほんの数秒、いや一秒未満の刹那だったかもしれない。あわや空中で衝突する、そのくらいの差だった。クィの目の前は、咄嗟に鱗粉に包まれた。
光が広がる。
クィの身体じゅう、いっぱいに光が纏わりついた。それは猛スピードで飛翔するクィと共に太陽の光を受けて、少しの振動や風でもぽろぽろっとこぼれて落ち、切り裂かれた風に巻き込まれて、くるくると渦を巻いた。
エンジンとスラスタの音に紛れて、くすくす妖精の笑うような声がこだました。
それはエレの声だったのか、それとも、クィの喉から自然に漏れたものなのか――
たぶん、お互いがお互いにそう思っていた。
ふたりは太陽が空高く昇ってから、だんだん赤みを帯び、また地平線の向こうに沈んでいくまで、ずうっとそうやって飛び回っていた。それは何よりも楽しい時間だった。クィのクオリアは色を増し、はっきりした輪郭を帯びながら、水に揺蕩う絵の具のように鮮やかに絡み合っていた。ふたりが空に描く軌道は、より複雑で、美しかった。
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