第5話

 深い木々の間をかき分けて進んでいっても、やはり、人間の姿や、その痕跡は見当たらない。森はどこまでも深く続いていて、島のほとんどを覆い隠しているようだった。クィは、食べられそうな木の実をいくつか見つけ、それを抱えて浜辺のキャンプへと戻ってきた。



「おかえりなさい」



 砂浜に座りこんだエレは、手にした木の枝をばきっと折ると、一方を焚火へと投げ入れて、もう一方で砂浜になにか、落書きをしているところだった。火の周りには、木の棒にくし刺しにされた魚が五、六匹、香ばしい匂いを漂わせている。



「いつの間に用意したの?」

「海と言えば魚でしょ? たまには食べたくなっちゃって、その辺の浅瀬にいっぱいいたから」



 空が紫紺に染まりだし、急激に気温が下がり始めた。クィは飛行翼ブレードに救命具の類いを全く積んでいなかったことを後悔した。毛布やシーツの類いは、クィには必要がないものだからだ。エレは、クィが持って来た木の実を、近場にあった岩で器用に叩き割ると、白い果肉にかぶりついた。



「美味しい。林檎みたいな味がする、ちょっと水っぽいけど。あなたも食べたら?」

「随分、落ち着いているのね」



 クィが言うと、エレはかえって不思議そうな顔をした。彼女は、自分が時空を超えたということについても、特に驚くことも取り乱すこともなく、ただ空をぼんやりと眺めて焼けた魚を背中からもそもそ食べた。



 クィはあれから何度も、自分自身の身体、自分の、そしてエレの飛行翼ブレードのシステムを見比べてみたが、彼女が過去から時を越えてやってきたという馬鹿げた事実を覆すには至らなかった。



 西暦というものがまだ機能しているのなら、確かに今は三六七二年。クィ自身も、過ごした日数を数えることはとうの昔にやめてしまっているので、この数値が正確かどうかも分からなかったが。



「クィ、あなたは食べないの?」

「私は――いいのよ、そんなに食べなくても平気だから」

「こんなに美味しいのに、勿体ない」



 エレは木の実と魚を交互に食べ、それが終わるとやにわに砂浜に寝ころんで、夜空を見上げた。既に星が瞬き始め、辺りは静寂に包まれている。



「きれい。私が見ていた星空とは、ずいぶん違うわ」

「千年以上も経っているんですもの。それは、変わって当然じゃないかしら」

「見てきたようなことを言うのね。千年も前のことなのに」

「私があなたくらいの時に見ていた空と、今見ている空でさえ様子が違うもの。たった百年か、百五十年か……分からないけれど」

「ふうん……」



 エレの白い顔が、音を立てて爆ぜる焚火に照らされて赤く染まっている。あどけない表情には、怯えや、不安は、ひとつも浮かんでいなかった。エレは再び手元に積んである木の枝を一本ばきっと折ると、それぞれを火にくべ、もう一匹の魚を食べ始めた。



「あなた、これからどうするの?」



 クィはつい、お節介に彼女に尋ねてしまう。



「どう、って?」



 エレは能天気に、口の中に入った魚の小骨を指でつまみだした。



「いろいろよ……これからどうやって生きていくのか、とか、元の時代に帰るにはどうしたらいいとか……」

「そんなの考えたってしょうがないでしょう? どうやってここに来たのかもわからないのに、どうやって戻るのかなんてわかるわけない。それに私、元の生活に未練とかないからさ、別に戻れなくても構わないっていうか」

「あまり、めったなことを言うものじゃないわ」

「クィに私の何が分かるっていうの?」



 エレは唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。確かにクィは、エレというこの少女のことなど何も知らない。彼女がいまどんな思いで、これまでどんな人生を送ってきたのか、それどころか彼女が過ごしてきた時代のことすら、ほんの断片的な歴史の記録としてしか知らないのだ。



「ごめんなさい。ちょっと無神経だった」



 エレは何も言わず、気にしていないという風にふん、と鼻を鳴らした。



「ねえ、クィはどこから来たの?」

ルナよ。もともとはそこで暮らしていたの」

ルナって、あの月? 地球の上に浮かんでいる?」

「そうよ。月面基地で、電脳技師として雇われて、いろいろな仕事をした。その当時の地球は、『憤怒ラス』の影響でとても人間が暮らせるような状態ではなかったから――地上で行われていた研究や、重要な財産はすべて、月の量子電脳で管理していたの。けれど、〈セレーネ〉――量子電脳が発狂して月面基地が崩壊してからは、それもままならなくなった。私はそれに巻き込まれる前にルナを脱出して、ここまで逃げてきた」

「ふうん……」



 エレのぴんときていない表情に、クィは様々なことを察した。彼女は少なくとも地球で月を見上げながら暮らしていたこと。月面への移住がまだ実現していないこと。「量子電脳」という概念がないこと。『憤怒ラス』がまだ起こっていないこと……



 エレは話に飽きたのか、少し離れた場所に佇むクィの飛行翼ブレードをしげしげと眺めた。



「あなたの飛行翼ブレードもカッコいいね。金属質で、スポーツタイプって感じ。ね、名前はなんていうの?」

「名前なんて付けてないわ」

「そうなの? どうして?」

「いままで、ほかの飛行翼ブレードと出会ったことがないもの。名前は、他のものと区別をつけるためにあるものでしょ。区別する相手もいないのに、名前なんて付ける意味がないじゃない。それに――」

「それに?」

「誰も、自分の手や脚や、指先に、名前をつけたりしないでしょう。それと一緒」

「ふうん……なんだかおもしろい考え方だね」



 すると、エレは立ち上がって、自分の飛行翼ブレードを誇らしげに眺めた。



「私のにはあるよ。〈ゼフィルス〉っていうの、カッコいいでしょ。クィも、絶対名前をつけたほうがいいよ、その方が飛んだ時の感触が段違いなの。もともとこの子にも、機械っぽい、長いヘンな名前があったんだけど、ぜんぜん調子が良くなくて。故障ばっかり。それで、修理してもらったついでにあちこちをカスタムしてもらって、そのときに名前を付けたの、ゼフィルス、知ってる? とってもきれいなチョウの名前。そしたら、見違えるくらい私にぴったりの翼に変わった」



 クィは思わず口から出かけた反論を飲み込んだ。それは、名前を変えたせいではなく、単に修理をしたからなのでは?



「クィの飛行翼ブレードは、どこで手に入れたものなの?」

「これは――自分で作ったものなの」

「へえ! イチから?」

「とある施設で素体を手に入れたの。それから、あちこちで見つけた部品を継ぎ足して、組み立てていった。行く先々で充電をしたり、古い部品を交換したり……そうして地上を旅してまわってる」

「すごい! じゃあプログラムとかも自分で書いてるの?」

「まあ、ある程度は……」

「ね、もっと教えてよ、あなたの飛行翼ブレードのこと。乗り始めてどのくらい? 部品を継ぎ接ぎしてるって、どうやって?」



 エレは、技術的なことというよりも、クィと、クィの飛行翼ブレードがいままで辿ってきたストーリーを聞きたがっているように思えた。クィは電脳に記録された錆びついた思い出を、できるだけかいつまんでエレに語って聞かせた。地上にはどんな施設があって、どういう場所を今まで飛んできたのか――



 クィにとっては、どれも似たような場所ばかりで、違いを説明するのには苦労した。もはや地上に文明はなく、文明を思わせるものもほとんど残ってはいない。この飛行翼ブレードだって、ほとんどガラクタの山の中から引きずり出して、無理やり動かしているようなものなのだ。



 遺構から遺構への旅。

 見るものといえば、海、空、海、空、時どき人間の遺したもの。その繰り返しを数十年、もしかしたら、それ以上続けてきたクィにとっては、長い時の牢獄に閉じ込められているような気分だった。



 それでもエレは、クィの話す何でもないエピソードのひとつひとつに目を輝かせた。どんなところに行ったのか、何があったのか、何を感じたのか、クィは嫌というほど覚えている。機械の身体はどんな些細なことでも、忘れることができないからだ。

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