第4話
数分、あるいは数十秒の飛行の末。不意に視界が晴れ、目の前が青に包まれた。積乱雲を抜けたのだ。どこまでも広がる海と、そのすぐそばで翼を広げ滞空している蝶がクィを待ち構えていた。クィも翼を大きく広げ、浮遊する。しばし、ふたつの翼は互いを見つめ合った。
距離は互いに数十メートル――クィは目の前の
右手で機体側面のコンソールを叩き、数十年以上も使っていなかったオープン・チャンネルを開いた。クィは思い切って声を出した。
「ハロー」
とりあえず、英語。
「ヤァ」
次は銀河共通言語。
「コンニチハ」
最後は古の日本語。
すると驚くことに、相手はチャンネルに乗ってきた。
『ハロー』
英語で返ってきた。元気のいい、幼い少女の声だった。
『良かった。私、あなたに危害を加えません。追いかけ回したことを、謝ります』
こちらの正体を探っているのだろう、馬鹿丁寧な言い回しで彼女は言った。光の翅が激しく揺らめいている。彼女はくすくす笑いながら、光の翅を翻し高度を下げていった。その先には小さな陸地が浮かんでいるのが見えた。
クィはこの星に、いまだ人為的な手の加えられていない自然島が残っていることを驚いた。陸地の大半は海没し、残ったわずかな陸地は、人工の構造物がわずかに顔をのぞかせている程度、それが大半だからだ。ところがこの島は、上空から見る限りでは人工の構造物も残っておらず、外周十キロ程度の小さな砂浜に囲まれていた。あるのは、生い茂る木々、寄せては返す穏やかな波。
クィが砂煙を上げながら砂浜に降り立った時、既に少女は
「はじめまして」
少女は目を細めて微笑んだ。
「いきなり目の前に現れたから驚いたわ。私は、エレ――あなたは?」
「クィ」
他人に名乗ったのは、随分久しぶりのことだった。
目の前の少女――エレは警戒することなく、クィのほうへと歩み寄ってくる。軽やかな足取り。砂浜に、彼女の履いたスニーカーの足跡が残された。クィは敵意がないことを示そうと、右手を開いて握手を申し出た。エレもまた、快く応じた。
「さっきはありがとう。あなた、相当飛ぶのが上手いのね。あの激しい嵐の中を、あんなに自由に飛び回る人なんて、見たことがない」
「そうかな。だけど、あなたの飛行もすごかった、クィ。私、ついていくのが精いっぱいで」
「なぜ、私を追いかけてきたの?」
「空で迷っちゃったの」
エレは傍らに佇む
「ちょっと高い所を飛び過ぎたのかな。雲の中に飛び込んじゃって、何も見えなくなった。機器の調子も良くなくて、位置観測システムとか、スタビライザーが狂い始めた。視界も効かないし、そのうち自分がどこにいるのか分からなくなっちゃって。それで、やみくもに飛んでいたら、がくんっと、翼が引っ張られるような感覚があって――こっちに進もうって思って、思いっきり飛ばした。そしたら海の上に出たの。私は雲の中から飛び出して、真っ直ぐ海に突っ込んでいくところだった。それまで上下左右もあいまいだったから、そのことに慌てて、その時、クィの姿が見えたの。で、場所もよく分からないから、ついていこうと思ったの」
クィもどこかで体験したことのあるような話だったが、彼女は違和感を覚えた。あの積乱雲の嵐の中、あれだけの自由度で飛び回れる彼女が、自分の居場所を見失うということがあり得るのだろうか?
「機器が故障しているのかもしれないわ。見てあげましょうか」
「いいの?」
「昔は電脳技師だったの。真似事みたいなものだけど」
クィはゆっくりとエレの
いかに有機的なフォルムといえど、
クィは思わずめまいがした。外見と同様、そのアルゴリズムは異常なほど有機的だった。うまく操作言語を英語へとデコードしてはいるが、根底にあるのは――少なくともクィは知らない――非常に特殊な操作言語を基にしていた。
「なるほど……インプットは通常言語で行えるけれど、不可逆性のものなのね。あえて出力機能を搭載していない……だけど自己診断プログラムも完璧に機能してる。相当、腕のいい技師が作ったものね」
エレは何も言わずに、不思議そうな目でクィのほうを見ていた。
「あなた、これはどこで作ったものなの?」
「別に――普通の
それだけではここまでの変貌はないだろう。クィは舌を巻いた、ここまで見事に、無駄なく整然と配されたコードは見たことがない。インターフェースとしての効率を極めながらも、逆方向からの解読を困難なものとしている。情報が盗み取られることを防いでいるのだ。
「随分使い込んでいるのね」
クィは素直な賞賛をエレに送った。
「インターフェースやスタビライザーまで、細かな配慮が行き届いている。ただ漫然と調整しているだけじゃ、こうはならない。
「よく分かるね。ただコードを見てるだけなのに」
「私も
しかし、クィはある違和感に気が付いた。
「衛星位置観測システム……通信途絶……現在位置不明……」
「やっぱりエラーが出てるんだ。そう、それが急に機能しなくなっちゃって」
エレは呑気に呟いたが、ホロ・ウィンドウをいくつも並べていくうち、クィの脳内にひとつの恐ろしい考えが浮かんできた。
衛星位置観測システム、それは、クィの
クィはおそるおそる、エレの
二二六七年十一月。それを見た時、クィは青ざめた。
「エレ」
クィは初めて、はっきりと彼女の名を呼んだ。
「あなたは何年生まれで、今は何歳?」
「西暦、二二五七年生まれ。十四歳」
なんでそんなことを聞くの、とエレは言いたそうだった。しかしクィは絶望にも似た、真っ黒にそそり立つ何かを目の前につきつけられた思いだった。クィは思い切って彼女のことを見据え、機械仕掛けの肺で意味のない深呼吸をした。
「どうしたの?」
「――あなた、とんでもない所に迷い込んだみたい」
意味のない、冗談めかした前置きをしてから、クィは呟いた。
「今は、西暦三六七二年。あなたの言うことが本当なら――ここは、あなたの暮らしていた頃より、千五百年近くも未来ってことになるわね」
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