第3話

 景色は雄大。ただ海と空と、そこに住まう生物たちの姿が見えるだけだった。それも、クィの猛烈なスピードについていけずに、彼女の過去へと変わっていく。



 優雅で気ままなその時間は、喧しいアラートと、唐突な閃光によって遮られた。

 うっかり高度を上げ過ぎたかと、クィは網膜に投射された表示に目を向け、驚愕した。



 ENEMY APPROACHING――――敵機接近。



 思わず振り返るように上空を仰ぎ見たクィが見たのは、空を真っ直ぐ切り裂いて落ちてくる白い光だった。流星の様な青白い粒子の尾を引いて、猛烈なスピードで落下してくる。距離はおよそ四百メートル。



 さらにクィは己の目を疑った。投射されたメッセージ、「生体反応あり」。



「えっ?」



 と、数年間出していなかった声帯が震えた。あの飛翔体はどうやら、何らかの生命体を抱えているらしい。



 すると、突如として飛翔体は軌道を変えた。ほぼ垂直な落下から一転、針路を一二〇度上空に取り、こちらへと近付いてくる。



 ENEMY APPROACHING――アラートがけたたましく鳴り響く。背中のスラスタを吹かしながらも、クィは一定の距離を保ち続けた。近付くことも、離れることもせず、相手の様子をうかがった。



 この空に自分以外の飛翔体が現れるとは、クィは心が揺さぶられるような感覚に震えた。海鳥や雹を避けるのとは勝手が違う。相手は寸分の狂いもない真っ直ぐな軌道で、こちらに向かって突っ込んでくる。しかし、ミサイルやレーザーなどを発射してくる様子はないし、熱源らしきものも探知できない。



 何が目的なのだ? 飛翔体の通り過ぎた空には、白い光の粒子が星のように漂い、消えていく。それは蝶の翅と、そこから零れ落ちる鱗粉を思わせた。



 互いに距離を離さないままの逃避行はしばらく続いたが、それは、唐突な雷鳴によって終わりを告げた。目の前に巨大な積乱雲が、竜のごとくとぐろを巻いて待ち構えている。それに気づいた瞬間、がくんと飛行翼ブレードが歪み、猛烈な風に揺さぶられた。ぐるりと視界が反転する。乱気流の渦に捕まったのだ。



 こんなことは幾度も経験してきた。乱気流は意志を持っているかのように有機的な流動でクィを揺さぶる。身体がねじれ、身体が上空へと引っ張られていく。アラート音をクィは無視して、上昇気流に身を任せた。スラスタは沈黙。周囲の状況を冷静に観察する。風はクィの身体をがっちりと掴んで離さない。上へ、上へと強引に身体を持ち上げていく。しかし、クィは冷静だった。目に見えるはずのない風の動きを、手足から、飛行翼ブレードから通じてありありと見て取れるようだった。



 視線は下へ。周囲に障害物はなし。ぐんぐんと上へ引っ張られていくさなか、風が止み完全に身体が自由になった一瞬をクィは逃さなかった。スラスタを全開、持てる限りの出力で積乱雲の中心へ向かって思い切り飛び込んだ。風は強い、周囲で無数の渦が乱れ巻いているが、飛行翼ブレードはそれらを強引に食い破って突き進んでいく。



 針路は上方三十度、速度二四〇。そのまま巨大な放物線を描いて針路は徐々に直下へ。すぐそばを積乱雲が轟と音を立てて巻き上がっている。内部では雷がうごめき、雨とも氷の粒とも取れない何かが飛行翼ブレードをけたたましく叩く。それらを突き抜けて、クィは真下へと飛んでいく。上昇気流の中の、わずかな隙間を縫うように――



 すると、周囲に雷とは別の光が煌めくのが見えた。さっきまで遥か後方にいたはずの正体不明の飛行翼ブレードが、いつの間にか目の前まで移動してきていた。それは乱気流の中を突き進むのではなく、帆船が風を受けて進むように――その挙動には、自由があった。いっぱいに広げた光る透明な翅が微細に、そして絶妙に動きを見せる――急激に上昇したかと思えば、そのまま雲の向こうまで消えていき、見えなくなる。そして突然、今度はクィの真下から突然現れ、そのまま猛烈な勢いで隣を掠めて吹き飛んでいく。



 クィの目の前に光の粒子が舞った。それは、それまでクィが見てきたどんなものより美しいものに見えた。



 彼女自身も乱気流にもまれ、制御を必死にこなしながら、クィは背後へと飛び去って行った蝶への思いにとらわれた。あんな飛び方はしたことがない。私も、あんな風に飛んでみたい。



 クィは針路をぐいと上方へ持ち上げ、正体不明の飛行翼ブレードが飛び去って行った方向を追いかけようとスラスタを思い切り吹かした。しかし、その行く手を乱気流が阻んだ。おさまるどころか、クィを振り落とそうとする鋭い風はますます勢いを増して、翼や身体にしがみついてきた。そのまま斜め下へ、海面へと引きずりおろそうとする。



 クィは焦りでいっぱいになった。それと同時に、先を行く飛行翼ブレードに乗る何者かの技術に驚愕した。こんな暴風の中を、どうやってあんなにきれいに飛んで行けるのだろう?



 また、ガクンと機体が大きく揺さぶられた。身体が歪にねじれる様な音を立てて推進力を失い、クィは嵐の中にたちまち巻き込まれた。制御が効かない。スラスタを吹かしても、身体をひねっても、翼が言うことを聞かなかった。それ以上の大きな力で、嵐はクィに襲いかかってくるのだ。やがて錐揉みしながら積乱雲の中心へと呑み込まれていくのを感じながら、クィは悔しさと情けなさで唇をかんだ。細かい針のような雨粒が、飛行翼ブレードのボディを叩きつける。



 不意に、すぐそばの雲の壁を突き破って、光が現れた。はじめクィはそれを雷かと思ったが、すぐにあの飛行翼ブレードだと気が付いた。激しく揺さぶられる視界の中で、その翅は美しさを保ち続けていた。クィは視界の隅にその挙動を捉えていた。光の粒子が集まって構築されたようなその翅は、筋線維で構築されているように細部に至るまで有機的な運動を行い、叩きつけ、通り過ぎていく乱気流のひとつひとつを掴み、受け流しながら、自分の推進力に変えているのだ。



 その飛行翼ブレードの持ち主は、ぐるぐる回転するクィのすぐ目の前でいったん停止すると、その翅を大きく広げた。オーロラのように一度波打つと、それまでとは全く違った挙動を見せ始めた。そのまま雲の壁に沿って急降下――風に乗るのではなく、風を切り裂くように。蝶の翅のようだった光の翼は一瞬のうちに流線型の逆三角形へと収斂し、今度は空を裂く飛燕の如き形状へと変化していた。



 クィは、それをついてこいという意思だと取った。蛇のように絡みついてくる風、まだ身を任せながら、スラスタだけは温めておく。身体が上方へ、上方へ持ち上げられていく。その後にやってくる、一瞬の無風状態をクィは見逃さなかった。



 スラスタ全開始動。

 翼をすぼめ、海へと突き刺さる槍のように、嵐の中へ突っこんでいく。あちこちから雷や、身体を叩く雨粒の音が響く。それでもかまわなかった。どこまでも直進、垂直落下。暗澹の積乱雲の中でも、あの光の粒子が道を示してくれた。

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