第2話
かつては、――クィがまだ若く、充分な活力を持っていた頃は――
波の音がする。海面から数メートル上にあるこのヘリポートにも、わずかな水しぶきが飛びかかってくることがある。
ここは巨大な墓標だ、とクィは思った。墓標というよりは、慰霊碑に近いのかもしれない。かつて、此処で採掘業に従事していた人間や作業ロボットたちは、その痕跡だけを残して、跡形もなく消え去ってしまっている。この墓標には、本来あるべき魂の帰る躯がない。あるいは、これは機械仕掛けの巨大な骸なのか。ゆくゆくは自分もこうなるのかと、クィの表情は哀れみを帯びた。
クィの身体が潮風に軋む。その、ほんのわずかな音が、風にあおられて遺構のあちこちに反響し、また遺構そのものが立てるわずかな軋みと共鳴して、まるで妖精の悲鳴のように聴こえるのだった。
バッテリーがほぼ満タンになるのと同時に発電機は沈黙した。クィはバッテリーを取り外して、
跪いた鎧のような流線型の装甲が滑らかに展開し、クィのための玉座を開放する。彼女はそこに、ゆったりと背中をあずけた。胴と肩、腿をベルトで固定されると、脊椎と後頭部に開かれた五か所のコネクタを介して
クィの意識が揺さぶられる。視界に淡く光る白色の文字が次々に投影される。中心に引かれた水平線、速度、高度、バッテリー、相対位置、これまで飛んできた位置を元にした座標、左右推進器の出力、動力回路――それらすべては視界を介して脳に飛び込んでくるのではない、むしろ逆だ。脳に直接送られた情報が、文字や数字の形になって目の前に飛び込んでくるに過ぎない。
今や、この
さっきまで滞在していた遺構が見る間に遠ざかり、海面と空、ふたつの青の間を切り裂いていく。一二〇、一四〇、一七〇――速度はぐんぐん上がっていくが、見える景色に変わりはない。下には海、上には空、そのふたつの交わる彼方は白く、淡くぼやけて揺らめいていた。朝の太陽が風に煌めいて、薄く白い雲が輝いた。
出力調整。姿勢制御。同時にこなしながら、鳥や風よりも速く、空を切り裂いて飛んでいく。クィはこの瞬間だけ、自分がまだ生きていると実感できる。
例えばこんな風だ、と百八十度のロール、頭が海に向かったところでスラスタを全開、槍の様に海面へ向かって突き進んでいく。視界が赤いエラー表示に染まり、警告音が鳴り響く。衝突まで四、三、二――直後に頭を上げ、身体を水平な状態へ。同時に脚部・背面スラスタの全開噴射。猛烈な衝撃とGに視界が揺さぶられながらも、落下は止まり、クィの身体は海面からわずか数メートルの水平飛行へと移行した。
水面がざわざわとしぶきを上げる。水棲哺乳類たちが海中から、物珍しそうな目でクィのことを見上げていた。彼らに軽く目配せをして身体を反転させ、今度は緩やかに高度を上げていく。十分な高さ、高度数百メートルの地点でぐるりと旋回。海が空へ、空は海へ。青のグラデーションがとけあう。再び水平飛行、脚部スラスタで空を蹴るように急速なブレーキ、高度を落とさないまま左へ百五十度旋回。今度はそれを反対にして、右へ百五十度旋回。ジグザクにカーブを数度、繰り返した後、全てのスラスタの出力をカット。速度数百の慣性と重力によって、身体が徐々に水面へと引き寄せられていく。警告音、赤いシグナル。それらをすべて無視してクィは、自分の身体がどこまでも落ちていく解放感に身を委ねた。次に背面スラスタを再始動、ただし緩やかに――急激な減速を起こさないように。落下速度は徐々に落ちていき、背面スラスタによる水平方向への加速が働く。
水面が近付いてくる、あと百メートル足らず。着水まであと八秒、ここで脚部スラスタを再始動、ただし噴射はしない。背面スラスタはまるで天からクィを吊り下げる糸のような力だ。徐々に水面へと近付いていき、爪先がとうとう水面に触れる、その瞬間に脚部スラスタを急速点火、噴射。白い波しぶきの中に、巨大なクレーターのような円形の衝撃波が生まれた。スラスタで海面を蹴り、同時にすべての出力を全開。跳ねるような急加速。身体が後ろに引っ張られていくような強烈な慣性と、一瞬あとにやってくるすべてを置き去りにする解放感。クィはそれらをすべて満喫しながら、何度も、何度も、そんなことを繰り返した。
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