苦情

 まず新川と駐輪場へ向かう。地面から突き出た水道水で、職人さんたちが手を洗っている。あいさつをした。夏場の外壁塗装は、ペンキが渇きやすく多いのだろう。飛散防止ネットにより風通しがわるくなると思えばそうでもなかった。

「これです」

 彼が指した。赤いほぼ新品の自転車だ。郁人の帰宅時はなかったはず。

大音量のまま買い物へでも行ったのだろうか。

「新品ということは、元々介護ホームなどにいたのかな」

 郁人は嫌になっての脱走を想像した。

「でもすぐにアパートへ入れませんよ。二階へ行きましょう」

 真面目なのか真剣に受けとめている。

 集合ポストへ足をとめ、二〇二を見ると名前はない。

「階段までテレビ音が聞こえてます」

 前を上がる新川が振り向いた。

「相当でかいな、こりゃ」

 二〇二の前に立つと、すぐに新川はチャイムを押す。

 七秒は待った。聞こえないのだろうか。もう一度新川は力を込めて押す。

「この大音量で居留守?」

 郁人が新川の耳元でいうと、親指は連打に変わった。

「ダメですね」

 新川はため息を吐いた。

「初日からこんな奴では、先が思いやられる」

 郁人はそういうと、スチールの扉を叩いた。

 十秒ほど立つと開いた。

「どちらさん」

 と、ずいぶんと老けた細身の男。大音量が耳へつく。白髪は禿げてもいて背が曲がっていた。

「ここの住民だけどお宅さ、なぜこんなに大きな音を出すの」

 横の新川がわざと大きくいい放った。見るからに漫才師の横山やすし風で、八十は超えていそうだ。

「そんなに大きかったか」

 前歯はなく高めの声だった。

「大きいでしょ、わかりませんか」

 郁人がつけ加えた。

「……」

 テレビ方向へ振り向く老人だ。

「とにかくボリュームを下げてください」

 新川が強めでいう。

「……わかった」

 といい、ドアが閉まった。

「苦情をいったのになんの謝りもない」

 新川は奥歯を噛みしめている。一応収まるだろうし戻ることにした。

「こんな老人って、たぶんまた音量を上げるでしょう」

 三階へ上がろうとする新川の背へ向けた。振り向いた彼は、

「たぶん……、今日はありがとうございました」

「ぼくこそ」

 といい、一階へ下りた。

 部屋に入り飲みなおそうとした。ベランダからは微かな音が聞こえる。

 スマートフォンをいじるとラインメールが二通。一通は宣伝でもう一通は離婚した徳郎だ。彼は花屋を営んでいたが、かみさんと馬が合わなく離婚した。

一人ではうまく回らず、仕事を減らしパチスロへ手を出した。そうなると借金ができ、四年前に店を畳んだ。自身は自己破産をしたという経緯だ。

あと三年はクレジットカードやローンは組めないという。離婚したというのに、元かみさんの誘いで飯を一緒に食べている。徳郎が奢ることになる。

今夜は、そのかみさんと飲みに行くという内容だった。お人よしもいいとこだ。別れたなら、二度と会いたくないのは女の方だが、彼へ飯や金をたかっていた。ようは金づる。今に借金もできそうだが、金を借りられない。

 三杯目を飲み干したころ、いい気分となった。タバコはやめても酒はやめられなかった。六時半を過ぎた。氷がなくなり腰を上げようとしたら、ベランダから雑音が聞こえる。

「やっぱな」

 つぶやきながら立ち上がった。たぶん新川も肩を落としているだろう。

 グラスへ氷を入れる。これではエヤコンをかけないとならないのか。

 熱帯夜は一時間ほどかけるが、それ以外は扇風機で過ごしている。新川はエアコンだろうか。耳たぶから想像をしてしまう。それでも騒音は聞こえるはずだ。

 土曜で不動産は営業していない。この騒音はいつまで続くのか。もう一度苦情をいうかだ。だが変わらないだろう。初日から苦情をいわれたのに太々しくボリュームを上げる奴だから。



 チャイムが鳴る。夜の九時近いというのにまだうるさかった。

「……どちらさん」

 ドア越しだった。

「新川です」

 ドアを開けると、二〇一号の茶髪のロング女性もいた。スエットにTシャツである。

「上の方ですよね」

 女性へ問いかけると小刻みにうなずいた。真横なのでこちらも相当なダメージだろう。

「参ります、窓を閉めてもうるさくて」

 女性は髪先をいじり出した。

「やっぱみんな騒音被害なんですよ」

 女性と新川を交互に見ていった。

「警察に通報はどうでしょう」

 新川の瞬きは早い。

「そうか、その手もあったか」

「いいましょう、それが一番いい」

 女性も賛成だ。これから寝るのだからそうだ。

 すでに新川が携帯を耳に当てていた。

「……あ、騒音被害がありまして……」

 事象を話し住所を伝えて電話を切った。

「これでいいわね、前の男も変な人でさ」

 女性のいうことはわかる。一階に住むため、この女性も結構な足音などでうるさいが見逃していた。

「ベランダで歌をね」

 郁人も当然知っている。

「ぼくは知らなかったな」

 新川は首を振った。その男、それでも夜はうるさくなかった。今回の老人はただ物ではないことを初日から知らされた。

「すごく変な老人でしたね。じゃ、わたしは失礼します」

 女性も結構長く住み、四年ほどはいた。

「すいません、わたしの名前は告げましたけどお宅は?」

 新川は目を大きくした。

「そうでした、水本です」

 片手でドアノブを握っているので疲れてきた。

「わかりました。じゃどうします、警察へ案内します?」

「部屋番号を伝えたので、そこまでは大丈夫かと」

「わかりました、では夜分すいません」

 郁人は会釈しドアを閉めた。郁人のアルコール臭があったはず。彼の顔も少しは赤かった。それで女性は早々に帰ったのかもしれない。

 警察は呼び鈴を鳴らすだろう。出なければドアを叩けばいいのだが。

 座椅子に腰掛け、残りのお茶割りを喉へ流した。まだ飲みたく氷を入れにいくついでに、ドアを開けて辺りを見た。そろそろ警察が来るころだろう。


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