二階のおじさん
のりたか
二〇二号
帰宅して洗面所にいる。汗が流れ、顔中べたつくため両手に石けんを塗りつける。白髪の混じるもみ上げは避け、顔を白くさせると水で流した。
細く垂れかかる目、団子鼻、上唇が厚い初老とでもいえる顔が現れた。濡れた手で薄い髪を正した。タオルで顔を拭きながら荷物を机へ置いた。閉め切った部屋は暑く、再び汗が出そうだ。窓を開け網戸の状態にすると、外から大音量がした。
「なんだ?」
小声を出しベランダへ耳を傾ける。時代劇なのか殺陣シーンのようで、テレビかDVD視聴だろうか。
網戸を開けてベランダへ出た。アパートの外壁塗装をしているため足場が掛かっている。上を見上げると、斜め二階の二〇二号とわかった。そこは二年前だったか、八十近い老人が孤独死をした部屋だ。その老人はベランダで独り言をいうし、布団を何度も叩きうるさかった。ベランダから細かいゴミを投げている時もあった。
そんな老人なので死んでくれて助かった。隣の七十代の女性は、なぜかそうはいわなかった。
せっかく騒がしい者がいなくなったというのに、だれか入ったのか。それか夏場の一カ月もかけての塗装だ。ペンキ屋の休憩場としたのか? そんなことはないだろう。賃貸なので貸した方が家主も喜ぶ。
一DKの部屋にあれだけのボリュームを上げているとは、相当なやつだ。耳のわるい老人だろうか。
目覚まし時計を見ると十七時半。郁人はバッグから出したパソコンへ、ワンセグをつなぎスイッチを入れる。音はNHKの時代劇と察知した。昨日はこんなことはない。ということは今日だ。壁のカレンダーは七月十六日。午前中は近隣の無料プール場がオープンしたので、一時間ほど泳いだ。帰って来ると引っ越しのトラックはなかった。午後は図書館で執筆した。電子書籍サイトへ投稿する、物語とエッセイを書いている。これは趣味で有料の設定も出来るので、少しの小遣い稼ぎになっていた。
郁人がいないときもこのボリュームだったのか。キッチンでグラスへ氷を入れ、冷蔵庫のお茶を取り出した。部屋のテーブルで焼酎を入れたお茶割りを作った。乾いた喉へ、とりあえず一杯飲み干す。
チャイムが鳴った。
郁人は台所へ向かい、横のおばさんかと思いドアスコープをのぞいた。
が、違った。
「どちらさん?」
まだ開けていないドア越しだ。
「あの、三階の者です……」
郁人はドアを開けた。
「どうも……」
郁人がいうと、眉間にしわをよせたメガネを掛ける小太りの男性だった。五十三となる郁人より少し若いだろう。
「三階の新川という者です」
ボリュームの件はわかっている。上の三○一に住んでいるはず。
「上のことですよね」
郁人は右手の人差し指を上げた。
「テレビ音がうるさいです」
といった新川は、両手を組む。まばたきが早く、少し神経質と感じる。黒の短パンにTシャツ、サンダル姿だ。夏の外出は郁人もそう変わらない。
「さっき帰ったら、なんだこの音ってね」
郁人は辺りを見ると、高校生の自転車が並んで通った。塗装のため足場へ飛び散らないようネットをしているが薄っすらとわかる。
「昼の二時過ぎ辺りからこんなです。一度収まったけどまたなんです」
新川はため息を吐いた。
「ほかの部屋へは伝えましたか?」
新川は三年ほど前からいた。会話はなくあいさつ程度だった。
「ほとんどいませんでした、それでお宅の自転車が駐輪されていたので」
チャイムを鳴らしても出ない場合が多い。宗教や保険、新聞など営業が来る。郁人はわずらわしくて、顔も見ずにドア越しで帰すことが多い。
「じゃ、今日越して来たの」
と、ベランダへ振り向いた。騒音は玄関にいても聞こえた。
「たぶんそうです」
首を傾げていた。新川の耳たぶは大きく、それなら少しは資産を持っているのではないかと思う。ただこの安アパートへ住むならどうだろうか。
「駐輪場に新たな自転車などあります?」
郁人はドアを開けっぱなしにした。玄関側には駐車場があり、ここからでは右の奥が駐輪場だった。足場で見えなくなっていた。
「あります、赤の婦人車が」
新川は駐輪場方向を見て振り向いた。郁人は気づかなかった。
「まさか女性?」
自転車を入れたが気づかなかった。
「いや、女性がこんな音を出さないと思います。周囲のことを考えない身勝手な男ですよ」
郁人の横、一〇二号は老人女性だ。テレビ音など聞こえない。
「そうだった、時代劇の音だから男か」
新川はうなずいた。三階建て九世帯の独身アパートは年寄りも住んでいる。
「最初が肝心ですよ。今から苦情をいいに行きません?」
懇願する顔つきだった。
「じゃ、ガツンといいますか」
新川の口角がつり上がった。昼からでは相当なダメージだったのだろう。
郁人はサンダルを履いた。
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