第3話 囚われの夜 二


 レオは夢を見た。

 風景はない。薄暗い洞窟の中を思わせる漠然とした景観。

 どこかで水が滴る音が反響する。それ以外の音らしい音は一切聞こえず、鼻腔を微かな黴臭さが襲った。


 上も下も、右も左もないような不思議な空間で、レオはただただ立ち尽くしていた。あるのかもわからない地面を踏みしめるという異様な感覚。まるでゼリー状に固まった水の上に直立しているような、ふわふわした心地だ。レオは心のどこかでこれが夢であることに気が付いていた。


 あまり気持ちのいい感覚ではなかった。無重力空間に近い今の状況は、船酔いに似た胸のムカつきを覚える。さっさと目を覚まして、もう一度寝直したいところだ。


 そんなことを考えていると突然、目の前に豪奢な細工の施された金の額縁が、幻のように現れた。大きな額だ。レオの身長と同等の高さのある長方形の中には、全ての光を飲み込んでしまいそうなほどの暗黒が満ちている。


 レオは、太陽の如く煌めく金色の中に押し込まれた漆黒を見つめる。闇以外のものが何一つ存在していなかった額縁の中に、ぼんやりと人影が浮かんでくるのが視えた。

 見覚えのある背格好。たちまち胸が苦しくなる。イオリの後姿だった。そこには確かに、愛しい男の姿があった。


「イオリ!」


 レオは額縁の中に飛び込もうと走り出したが、自分とイオリの間には目に見えない透明の壁のようなものがあった。掌がガラスを思わせる固い感触を確かめる。夢の中であるはずなのに、その無情な感触は彼女の掌を拒絶するかのように跳ね返した。

 どんどんと叩いてみても、向こうには音が存在しないのか、彼は一向に振り向く気配がない。


 どん、どん! 見えない壁を叩く音と、「イオリ!」亡き恋人の名を呼ぶ悲痛な声。


 彼は振り返らない。絵のように立ち尽くすばかりだ。

 反響する謎の水音。深い音だ。流れる水というよりも、なんだかべたついた感じがする。


 無情な広い背中。味気のないモノクロの景色に溶け込んだ姿。突然、着古してくたくたになったカッターシャツが闇をも押し退ける鮮烈な朱に染まる。


 血だ。首から噴き出た血が、白いシャツをたちまち赤に染め上げてゆく。


 ぴちゃん、ぴちゃん……彼の首から血が滴る音と、水音がリンクする。

 の光景だ。レオは住人を避難させていて目の当たりにはしなかったが、今目の前で展開されている出来事は、デライラがイオリを殺した瞬間の光景なのだ。


 イオリは首を押さえて仰向けに倒れる。止めどなく噴き出す血が、深い闇の中に赤い残像を引いた。


「イオリ!」


 その時だった。倒れたイオリの向こう側に、白い細面が浮かんでいるのが見えた。黒いドレスを着たデライラだ。

 赤い口紅を引いた唇がにい、と深い弧を描き、ギザギザした白い歯が覗く。歪ともいえる笑顔。何が面白い!


 デライラがすっと華奢な右手を上げる。視線は、倒れたまま身動ぎ一つしないイオリに留まっている。何をする気だ。手も足も出ない相手に、この悪しき魔女は何をしようというのだ。


「やめろ! 去れ!」


 先ほどよりも激しく壁を叩く。その瞬間、レオはひゅっと息を呑んだ。


 ――殺意。

 すい、と持ち上げたデライラの手から、明確な殺意が放たれたのがわかった。次の瞬間、目の前が一面の赤に染まった。透明な壁に大量の血が吹き付けてきたのだ。視界いっぱいに、イオリの――


「うわあああああああああああ!」


 レオは、自分の悲鳴で目を覚ました。血染めの景色が掻き消え、目の前には月明かりの差し込む牢屋の内装が広がっている。


 固いベッドの上で座ったまま眠っていたようだ。辺りを見渡す。頭上の格子の向こうには、藍色のローブを羽織った三日月が浮かんでいる。傍らには、空になった食器たちが、心細そうに身を寄せ合っている。


 心臓が破れるのではないかというくらい暴れている。全身が信じられないくらい汗だくだ。拭った首筋がぬるりと滑る。


 頭の中がめちゃくちゃにかき混ぜられたような気分だ。こんなにも汗をかいているのに、全身が冷えている。ただ、心臓だけが燃えるように熱い。


 いつの間に眠っていたのか。

 レオは目覚める寸前に見ていた光景を思い出す。イオリの殺されるその瞬間。彼の血で視界が赤に塗り替えられる。鮮明な光景を思い出して、徐々に脈拍が上昇する。込み上げてくる不安を腹の底へ飲み下す。


 安息などないのだ、そう言われているかのようだ。魔女デライラを殺すその瞬間まで、目が覚めていようが眠りの中に居ようが、芽生えたばかりの復讐心は、彼女に安息を与えるつもりはないらしい。


「ちくしょう……!」


 初めて目の当たりにしたイオリの死。夢で見た目の覚めるような鮮烈な血の色が網膜に焼き付いて離れない。

 首を深く切りつけられた傷がくっきり見えた。あんなふうに血が噴き出るのも。何もかもがショッキングだった。


 自警団入りを果たして二年。町の周囲で人に害をなす魔物を切ったことは一回や二回ではない。人間と同じ、真っ赤な血を出す生き物を殺した回数は、一般人よりずっと多い。けれど、今まで見てきたどんな醜い魔物の死体を見るよりも、大切な人の死の光景を見るのは、精神的にひどく堪えた。


「くそっ、くそ! なんで、あんな夢を……!」


 その時、木の扉の向こうからぱたぱたと控えめな足音が聞こえてきた。かちゃ、と寝ている子どもの様子を見に来た母親がするような仕草でそっと顔を覗かせたのは、先ほど料理を持ってきてくれた少女だった。


「……大丈夫ですか?」


 レオは少女の顔を見て無意識のうちに安堵した。その素朴な顔立ちが、愛おしく感じるのは何故だろう。


「ああ……」

 

 頷きながら言ったレオの声は、ひどく掠れていた。喉がからからに渇いて、飲み込む唾も出ない。


 彼女は急いで扉の向こう側に引っ込むと、しばらくして、カサカサに乾燥した手に木の器を持って戻ってきて、遠慮がちにそれを差し出す。中は水で満ちていた。

 レオは自分に差し向けられた厚意に気付かず、器と少女の顔とを交互に見つめた。それを警戒心の現れと勘違いした少女が、自分で器に口をつけて、これが毒入りでないことを示して見せる。


「変なものなんて入っていません。ただの水です」

「……」


 レオは大人しく、彼女の手から木の器を受け取ると、それを勢いよく喉へ流し込む。渇いた喉を、胃に向かって冷たい水が落ちてゆく。同時に頭の中を占めていた鬱々とした霧も少しは晴れたようだった。


 レオは器に残った水気を切るように、二回ほど下に向かって振り、


「ありがとう……」といくらか生気の戻った声で言った。些かぶっきらぼうではあったが、敵意のない声音に、少女は安心したように頬を緩めた。ふと視線を落とし、そこにあった空の食器類を見て、今度は照れたように顔を伏せる。けど、その年相応の愛らしい表情はたちまち掻き消えた。


「すみませんでした。私の兄が、あなた方に失礼を」


「兄? あなたはあの不敬な男の妹なのか?」


 歯に衣着せぬ物言いに、少女は困り顔で笑いながら頷く。ということは彼女もここの町長の娘ということになる。無礼な兄とは違い、謙虚で気弱そうな印象の少女。

 レオは表情を変えず、「あなたのせいじゃない。カッとなった私も悪かったのさ。連れを制止するべきだった」


 ところで、とレオは話題を変える。


「私と一緒にいた男を知らないか? 体の大きな、ガラの悪い男がいただろう」


 スライもこの建物内のどこかに閉じ込められているはずだ。もし隣の部屋や近くの場所に監禁されているとしたら、こんなに静かなわけはないから、どこか離れた牢屋に押し込められているのかもしれない。あの男が大人しく檻の中に居られるとは思えなかった。


「ガラの悪い――」


 その時、建物内のどこかで、立て続けに銃声が轟いた。少女はびっくりして肩を飛び上がらせた。

 思わずレオも腰を浮かし、普段の癖で傍らの剣を掴み上げようとしたが、生憎手元に愛刀はない。

 周辺がひどく騒々しい。悲鳴のような声と、遠くで何かが壊れるような音も聞こえる。


「何の騒ぎだ」


「さあ……」


 レオと少女は、互いに顔を見合わせた。

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