第3話 囚われの夜 一
固いベッドの上で胡坐をかいたレオは、格子の向こう側にある三日月をぼんやりと見上げていた。
遥か遠くの空にある凪いだ剣の残像のごとき月の姿は、愚行を犯して幽閉されたレオを嘲笑うかのように、冷徹な光を放っている。
埃っぽい牢屋の中。簡素なベッドがあるだけの内装は極端に狭く、レオのお尻の下に敷かれた薄っぺらいマットレスは氷のように冷たくて、ろくに安眠できそうな代物ではない。隅の備え付けの蛇口から水が滴る音が、耳にこびり付くようだった。
肌寒い。申し訳程度に用意された麻のボロ布を手繰り寄せて包まっても、底冷えするような寒さを凌ぐことはできなかった。外套が入った鞄は、牢屋に押し込まれる際に取り上げられた。それだけならまだしも、大事な剣までもがこの手から離れる事態となってしまった。
時刻はすでに深夜を回ろうかという頃だろう。世界は眠りという静寂に包まれ、近くの森の中からは梟の声が聞こえた。
レオは苛立たし気に背後の石壁を殴りつけた。
徐々に頭が冷えてくると、先ほどの酒場での己がまるで別人のように思えてくる。剣を取られたあの瞬間、自分の中に住みついた全くの別人に身体を乗っ取られたような気分だった。激しい怒りという感情が理性から乖離していた。怒りが人格を得たような感覚。あれは本当に自分だったのだろうか。
そっとため息を
焦りすぎた。イオリから授かった宝物がこの手から離れたことで、動揺してしまった。だからあんな風にすぐカッとなった。デライラへに復讐心に囚われ、余裕を失くしていたのも一因だろうが、剣は彼女の一番の財産なのだ。喜怒哀楽、全ての感情は常にあの剣と共にあった。
過去にイオリに言われたことがある。君は存外に熱くなりやすい子だ。頭に血が昇ると剣尖がぶれる。心が乱れると、それは手にした剣にも直接通じてしまう。剣は道具じゃない。己の身体の一部だと思いなさい。そう、それこそ、剣に心が、もしくは脳があると心得てみて。心や頭から発露する動揺は、そのまま剣筋に現れる。
こと、多く指摘されたのは、レオは普段は物静かなのに、一度頭に血が昇ると人が変わったようだ、と。成長するにつれてその二面性はなりを潜めていたが、イオリの死をきっかけに、支えを失った青い胸の中で、その怪物が再び目を覚ましたらしい。
「なあ、イオリ。あなたを失ってから、私はどこかおかしくなってしまった。あなたに指導を受けていた時より、ずっと何かに急き立てられているような気がする。あなたに言われたこと、何一つ理解出来ちゃいなかったんだ……」
思わず零れた弱音と共に、ほんのりと白い息が視界を染めた。
言ってから我に返り、大波のように心細さが込み上げてくるのを否定するかのように、レオはピシャリと頬を打った。
弱い私は必要ない。これからの旅において、弱さはこの上ない弱点となる。目に見えないはずなのに、相手に一瞬で勘付かれてしまう弱点。心の弱さは、人間が目で見るものでなく、心で感じるものだ。相対した相手の胸の内を探らんとすれば、弱さというものはすぐに露呈してしまう。動揺や、恐怖といった感情がまさにそれに近い。見破られやすい感情だ。
――弱くない。私は弱くない。私は鬼になるのだ。魔界を統べる全能の王をも屠る悪鬼に。
決意を再建したレオが、己を見下ろす三日月を睨み上げたその時、牢の向こう側にあった木の扉がそっと開いた。
レオはちらと鋭い視線を向ける。さっきの酔っ払い――自警団たちを呼びに行ったあの男は、町長ゲオルクの息子らしい――が来たのかと身構えたが、そこに現れたのは、レオと同年代くらいの少女だった。質素なトゥニカを着、くすんだ金髪を首の後ろで一本に束ねている。そばかすの散った青白い頬は乾燥しているのか、白く粉を吹いていた。自分に向けられた射貫くような視線におどおどと視線を彷徨わせた彼女は、「あ、あの」と遠慮がちに格子を隔てたレオの前に滑り込んでくる。その手には銀のトレイが乗っていた。
「お、お腹空いてませんか? 食べるもの持って来たんです……」
レオは目線をトレイの上に落とす。シチューの入った木の器が一つと、遥か南の大陸のナランナ地方で主食とされているナランナ麦のパン。香りでわかる。ナランナ麦は古い紙のような独特の甘い匂いがするのだ。それと隅の方に、ミルクの入ったカップが一つ。素朴な彩りだが、とても美味しそうだ。
レオは少女の言葉には応えず、「私をここから出せ」と氷を思わせる声で言う。取り付く島もない態度に、少女は気圧されたように固まった。
無情にも、レオはそんな彼女に向かって畳みかけるように「私の剣をどこにやった。返せ」と、ベッドから降り、冷たい格子に詰め寄って、牙を剥く獣のように奥歯を噛みしめる。
少女は情の欠片も持ち合わせていないようなレオへの恐怖で、「ごめんなさい……」と目に涙を溜めて、弱々しい謝罪の言葉と、料理の乗ったトレイだけを残して、足早に出て行った。
格子の下部にある、料理を出し入れする隙間に差し込まれたそれらは、薄暗い空間の中でほんのりと白い湯気を立ち上らせている。
小さく息をついたレオは、料理たちとは対照的にひんやりとした目で、銀のトレイを見下ろした。
再び沈黙の底。時の流れがひと際緩やかになるような感覚。藍の空にたなびく灰色の雲と、盆の上の料理たちの湯気だけが、目に見える唯一の時の経過だった。
そのままにしておこうかとも思ったが、人の厚意を無下にできない生来の性格故、レオは渋々と料理を引き寄せて、湯気の下にある料理たちを見つめた。
警戒をしないわけではなかったが、トレイを下げにまたあの娘が来て、手付かずのまま冷めた料理を見て悲しそうな顔をするのを想うと、少しだけ胸が痛んだ。――と、いう理由もあるが。
ぐううう……。
温かな料理を前にして、腹の虫が空腹を告げる。身体の機能というものは人間の感情よりも遥かに素直に出来ている。あれだけいきがっておきながら、目の前の馳走に理性を揺るがすことになるとは、レオは少しバツが悪かった。
別に大罪を犯したわけではないのだ。料理に毒を仕込んで殺されるということはないだろう。
レオはトレイの手前にあった木製のスプーンを手に取り、シチューを掬って口に運んだ。酒場ではろくに食事が出来なかったのもあり、すっかり腹が減っていた。味はやや濃い目で、レオの好みに合った味付けが嬉しかった。二口目から口とシチューを往復するスピードが格段に上がる。
食器は瞬く間に底を見せた。ナランナ麦のパンは、中の生地がしっとりしていて、噛みしめると微かに甘みが染み出す。シチューとパン、交互に胃に押し込みながら、最後に砂糖が入ったホットミルクを一気飲みした。仄かな甘さが全身に蓄積した疲労を溶かしてゆくようだった。
後には冷めた食器だけが残った。レオはぐい、と袖口で口元を拭い、一息つきながら、そっと壁に背中を預けた。食事のおかげで体が温まってきたと同時に、少し眠たくなってきた。こんな寒空の下でうたた寝などしては風邪をひいてしまう。レオは目を擦って忍び寄る眠気に抗う。
「……スライはどこにいるのだろうか」
睡魔を追い払うつもりで呟いた声は、夜の静寂に反響して消えた。
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