第2話 酒場大乱闘 二

「おい」


 先ほどまでの軽い調子がたちまちなりを潜め、地を這うような低い声が彼の口を突いて出る。威圧感満載のそれに、その場にいた全員が一斉に声の主であるスライへと視線を向けた。魔族は乱暴に、レオから酔っ払いを引き剥がすと、連れへの無作法を咎めるかのように尻餅をつかせた。


「何すんだよ」と、酔っ払いが不服そうに抗議する。据わった目が相手を威嚇する猫のように吊り上がるが、酒気を帯びた締まりのない顔でやられても全く迫力がなく、スライはケロっとしている。そもそも、ただの人間の青二才に凄まれたところで、荒くれ者の集まる魔界育ちの彼は痛くも痒くもないことだろう。


「気安い、と言ったはずだ」


 不届き者共を見下ろすその瞳は、闇を引き裂く赤き一閃の如くぎらついていた。人ならざる者の視線が放つ妖艶な煌めきに、酔っ払いたちは揃って声を失う。


 賑わい始めたばかりの酒場内も、この瞬間だけは空気がピリ付くのを察して、刹那の静寂に包まれた。時が止まったような感覚の中、テーブルの上でほんのりと湯気を上げた料理たちが居心地悪そうに腰を落ち着けている。


「んな早い時間から酔っ払いやがって、いいご身分だな。ようやく酒が飲める年頃になって嬉しいのは理解できんこともないが、さっきから趣味の悪い猥談がうるせえんだよ。他所行ってくんねえかな、童貞坊やたち」


「なんだとてめえ!」


 顔を真っ赤にして怒気を露にする若者たちの反応は、まさしくスライの言った最後の文言が間違いでないことを示唆していると、レオは悟った。

 彼が赤ら顔の集団を煽ったことによって再び動き出した時間は、瞬く間に酒場内の雲行きを怪しくした。ここらで止めに入らないと、この場全体を巻き込んで取り返しのつかないことになってしまうのは火を見るよりも明らかである。いくら相手の方に非があろうとも、今の状況をゆるがせにするのは憚られた。


 愈々いよいよ、気を揉んで立ち上がったレオが「やめろ」と口を開くよりも早く、魔族はと前に出て、更に相手を扇動する。


「おう、やらいでか。生憎と、俺は今、過去数年分まとめて暴れたくて暴れたくて仕方がないのよ。命知らずな愚か者を相手にするのは、強者としての我が矜持きょうじを見限るに等しい行いだが、この際、そんなこたどうでもいいぜ」


 スライは、意気揚々と空になったワイングラスをぽーいと放り投げた。パリンと甲高い音が響き、透明の破片が綺麗に掃き掃除された床に散乱する。

 今度こそ、快楽を伴った好戦的本能に従うままのスライを止めないわけにはいかない。彼女は強めに、魔族の肩を掴んだ。


「スライ、やめろ。周りの迷惑になる。ワイングラスも弁償する羽目になっただろ」


 スライは聞く耳持たずというよりも、完全にレオのことを無視しているようだった。肩に乗ったレオの手を振り払うように身体を斜に構えると、最悪なことに、戦いの火蓋を切って落とす最初の一撃目を、傍にいた小柄の酔っ払いに放つ。


 魔族の強靭な拳が、人間の頬骨にぶつかる鈍い音。

 相当強い力で殴られたのか、酔っ払いはテーブルの上のジョッキや皿を薙ぎ払いながら床に倒れた。グラスが割れるよりもさらに悲惨な有様が展開される。


 やりやがった……レオは深いため息をつきながら頭を抱えた。


 スライの気性から考えて、《正当防衛》という言い訳を乱用するために、激昂した相手の最初の一発目を受けてやるほど策士でもないようだ。否、策といえど自分が人間相手の拳をその身に受けるのが不愉快でならないのだろう。喧嘩っ早いところを見れば安易に想像がつく。争いごとに関しての勝利への執着と、プライドの高さは一級品といったところか。


 たちまち酒場は、荒くれ者集団の武闘場へと姿を変える。空間内を熱気が包み込むや否や、レオと酒場の主人を除いた客たちはファイターらの周囲を取り囲み「やったれ!」、「流れ者の兄ちゃん行け!」などと歓声やヤジを飛ばす。


 久々の喧嘩に腕が鳴っているのだろう、「ヒャハハッ」と正気ではない悪魔のような哄笑を響かせながら、スライは続けざまに左右のストレートを放つ。

 二発目の拳が空気を裂き、手前にいた酔っ払いの鼻っ面にめり込む。会心の一撃は、相手の意識を飛ばすのに十分だったようで、上向き気味の鼻腔から噴水のように血潮を吹いて後ろ向きに倒れた。


 早くも一人が戦闘不能になったところで、場は一気にスライ優勢の空気が流れ込んできた。


 酔っ払い共は束になって魔族に襲い掛かるも、実力差がありすぎるが故に、展開は目も当てられないほどの一方的な結果に流れ込んでゆく。

 魔族は身体能力だけでなく、五感やポテンシャルも人間のそれを遥かに凌駕する。向かい来る拳や回し蹴りをいとも容易く交わしながらカウンターを見舞う魔族の表情は、早くも退屈を感じているようであった。しかも相手は酒を飲んでいる。体の軸がブレて、一つひとつの攻撃に全く力が乗っていない。こんな攻撃、スライでなくとも簡単に交わせてしまうことだろう。《守り》という概念は存在しないのではないかというほどの圧倒的な攻めの姿勢は、もはや自然界の脅威である大嵐を彷彿とさせた。俊敏さ、機動力、化け物じみた体幹の良さ、相手の弱点を容赦なく突いてゆく残酷さに、酔っ払いたちは手も足も出ない。


 いきなりしゃがみ込み、長い脚が床すれすれを撫でれば、足を掬われた酔っ払いたちは舞台上の喜劇のように一斉に転がり込む。


 店内はどっと笑いに包まれたが、目も当てられんと呆れ返ったレオが「やめろと言っているだろ!」と声を荒げて仲裁に入るも、その時、いち早く体勢を立て直した酔いどれの一人が、傍にあったレオの剣を奪った。


「あっ、馬鹿お前! 勝手に触るな、返せ」


 底意地の悪そうな赤ら顔をニヤニヤさせた男は、ぎゅっと自分の方に剣を抱き寄せて、我儘盛りの子供のようにイヤイヤと首を横に振る。


「この野郎!」


 気が付いた時には、剣を握り続けて些かたおやかさが消えた掌をきつく握り締め、男のにやけ面に思いきり叩き込んでいた。


 頭に血が昇った。常に彼女の傍に寄り添っていた《理性》というものが、暴力的な《本能》へと姿を変えるまで一刹那も経過しなかった。戦士としての誇りを……イオリからもらった大事な贈り物を穢されたような気がして、怒りをぶつけないではいられなかった。


 一度沸点に達した怒りが、暴力的衝動の反射によって徐々に落ち着いてきても、この男に対する嫌悪感はいっかな消え去ることなく、レオの胸をぐるぐると気持ち悪く這い回っている。


 血が滾るとはよく言ったもので、今の彼女もまさしくその言葉が示すように、全身の血が沸騰したように熱く、その熱を逃すために暴れ回りたくて仕方がなかった。こんなにも自分は怒りっぽい性格だっただろうか。


 女に殴られるとは思っていなかったたちの悪い酔客は、己に起こったことを理解しきれずに、しばし唖然としてしまう。腕の力が緩んで剣が床に落ちた。がちゃん、という耳に刺さるような音が、レオの怒りをより一層かきたてる。


 あっと声を上げながら我を忘れて剣を拾い上げるなり、すかさず怒りの二発目を放つ。固く握りしめられた右手は男の顎骨を打ち、吹っ飛ばされた男は他所のテーブルを巻き込んで床に転がった。


「お前、よくも私の魂をぞんざいに扱ってくれたな。絶対に許さん!」


 新たな挑戦者レオが参入し、酒場の中央を舞台にした大乱闘はさらに白熱を喫した。テーブルや椅子が折角の料理たちを下敷きにする光景が心を痛ませるが、今のレオに己の怒りを鎮めることが出来なかった。


 飛び交うヤジも勢いを増す。熱気で汗が噴き出てきた。

 一方で、店の無残な有様に、気弱そうな店主は今にも号泣しそうだ。「やめて、やめて」という懇願の声も、多くの歓声の中では存在しないもののように掻き消えてしまう。


 ――ああ、もう。何もかもが苛立たしい。私を急き立てる。デライラへの憎しみも、目の前の屑野郎へのムカつきも、全部が私の神経を逆なでする!


 制御の利かない怒りが発露したことにより彼女の頭の中では、様々な感情がないまぜになっていた。このまま、気が済むまで暴れまわってやろうか。


 その時だった。突如として、鼓膜を打つ激しい破裂音が喧騒を破った。

 場は一瞬にして、水を打ったような静寂に包まれる。瞬間、レオの全てを支配していた怒りの感情も、徐々に沈静化する。背中を流れる汗が、店の中に吹き込んできた冷風によって冷ませられ、思わず身震いした。


 破裂音の出所に目を向けると、そこには酔っ払いの一人と、頭の固そうな小太りの中年男、数人の自警団風の青年が、酒場の入り口で逃げ場を封じるかのように並んで立っていた。中年男の手には小型のピストルが握られており、暮れはじめの空に向けられた銃口からは、白い硝煙が立ち上っていた。破裂音の正体はであった。


 店主は安堵したように、「ああ、よかったゲオルクさん」と小太りの男に縋りつかん勢いである。


 ゲオルクと呼ばれた小太りの男は、店内の有様に視線を走らせた後、見慣れぬ顔の旅人二人に視線を止めて、眉を顰める。まるで路地裏に放置された生ごみを見るような目つきに、レオの胸の中に彼に対する不快感が生じた。


「呼ばれて馳せ参じたものの、一体これは何の騒ぎだね?」


 ゲオルクは店主に向かって話しかける。


「はあ、実はですね、彼らが……」

 店主は手短に、騒動のあらましを語った。ゲオルクは「なるほど」と重々しく頷き、「を連行しろ」と背後の自警団に命じた。そこの二人と示されたレオとスライは、事態の流れに違和感を感じて声を上げるのも忘れて瞠目した。


「はあ? なんだよおっさん。喧嘩売ってきたのはこいつらだぜ」


 先に我に返ったスライが、異議ありとばかりに食って掛かるも、酔っ払いたちはここぞとばかりに、「先に手を出したのはこいつだ」と示し合わせたように声を揃える。こればかりは変えられぬ事実であるために、否定のしようがない。スライも二の句の継ぎ方を考えあぐねて、

「てめ……クソガキ共が!」

 と、鋭利な歯をぎりぎりと噛みしめながら、ただただ悪態を吐くしかなかった。


「お前ら、抵抗するな。怪我をしたくはないだろう。少しでも変な動きをしたら、脚を撃ち抜く」


 取りつく島もないといったところか。ゲオルクは撃鉄を越して、銃口をレオの足元に定めた。まさに一方的とも言える横暴さに、平静を取り戻したレオも反論したい気持ちが込み上げてきた。が、男の目は、今の発言が脅しではないことを物語っている。一振りの剣と、一丁の銃。どちらが有利か、そんなことは子供でも分かる。狭い店内の中央と入り口という距離では、相手が余程のノーコン野郎でない限り弾丸は当たる。刃を抜き放つには周囲に障害物も多い。レオは舌打ちをし、抵抗いたしませんの意思表示としてその場で棒立ちになった。


 ゲオルクは手にしたピストルを流れ者らに向けたまま、自警団たちに「捉えよ」と顎をしゃくる。

 レオは一刹那とはいえ、冷静さを欠いた己の行動を後悔しないではいられなかった。


「てめえ、放しやがれ! 殺されたいのか!」


 凶暴な野犬のように吠え、隙あらば誰彼構わず噛みつく勢いのスライは、大勢の自警団に押さえつけられる形で身柄を拘束されてしまった。

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