第2話 酒場大乱闘 一

だ。シルベスターという呼ばれ方は気に入らん。スライと呼べ。みんなそう呼ぶ。――何、金? 持ってるわけねえだろ。こちとら、つい今しがたまで森ン中で長年ぐぐぴしてたも同然なんだぜ。着の身着のままだ」


 とある街の酒場である。森を出て西へ二十キロほど歩き、川沿いの小さな町で足を止めた。流れ者が多く留まる土地であるらしく、レオとよく似た身なりの人間がちらほら見受けられた。


 空は西日に彩られ、間もなく一日の終わりが訪れようとしている。


 先に宿屋で部屋を取り、まだ人の少ない酒場にて夕食を摂る運びとなった。

 裸電球のぶら下がった小ぢんまりした店内に通されるなり、レオたちはテーブル席に腰を落ち着けてメニュー表に没頭する。


 スライはメニューをざっと見渡して「決まった」と言った。あまり深く迷う性質たちではないようで、彼の視線はすでに他所へと移っている。カウンターの奥の棚に並んだウイスキーのボトルに目を奪われているらしい。まさかあれを注文するわけではなかろうな、とレオが財布の中身に思いを馳せている間も、「早く決めろよ」などと急かすことなく、彼女が顔を上げてから、ベテラン風のウエイターを呼び止めた。


 レオはアマザケを、スライは安価な赤ワインを注文した。一緒に、干しイチジクと、焼いたパン、トマトのスープ、牛肉の赤ワイン煮をそれぞれ二人前ずつオーダーする。


 アルコールは間もなくして彼らの前に並んだ。

 アマザケをちびちびやりながら、レオは頭の中で今後の路銀の計算を始める。

 全財産を握りしめて町を出たはいいが、もし予定外の出費が嵩むようなら、道中で日雇いの仕事を探さねばならない。幸いなことに、剣の腕には自信がある。用心棒の仕事でもいくつか熟して様子を見よう。この町での出費は極力抑えて、以降も安宿で夜を明かす。スライ曰く、ここから魔界への入り口に向かうには、最低でも半月はかかるという。スムーズに旅が進めばいいが、天候が荒れたり、怪我をしたりすれば、何日か足止めを食らうこともあるだろう。ああ、焦燥感。レオの胸の中に逸る気持ちが押し寄せてきた。


 そんな彼女のシビアな心情とは打って変わり、連れの魔族は、太い首筋を露にしてワインを飲み干す。まるでジョッキビールでも飲んでいるみたいな雰囲気だ。


「ぷはあ! 久々の酒は美味いな」

「おい、少しは味わって飲め。私の金だって有限なんだぞ」

「わかってんよ。あ、ちょっと、そこのあんた、ワインのお替り頼むわ」

「はあ……」


 言ってる傍から。レオは盛大なため息を吐いて額を押さえた。

 程なくして狭いテーブルに、ほかほかと湯気を立ち上らせた料理たちが運ばれてくる。


 焼きたてのパンの香ばしい香り、目が覚めるような鮮やかな色のトマトのスープからは濃厚な香りが漂う。干しイチジクはこの店の裏にある畑で栽培されたものらしく、いつでも新鮮な状態の物を提供してくれるようだ。

 一番最後に出てきたメインディッシュ。牛肉の赤ワイン煮は、無という時間の中を駆けずり回ったレオの腹を存分に満たしてくれることだろう。


 レオは、小さな挙動で両の掌を胸の前で合わせると、早速スプーンを手に取り、スープを啜る。トマトの味が舌を楽しませてくれる。余分なものが何一つない純粋な酸味で構成されるこの味がたまらなく好きだった。調理という手間が加わったことにより青臭さの無くなった太陽の化身は、やはり火を通して食べたほうが美味である。


 程よく焦げ目の付いた白パンを一口サイズにちぎって、スープにつけて食べるのも良い。外側のパリパリ食感が失われない程度に、さっと浸して口に運ぶ。


 美味しい。そういった感覚は確かに感じているのだが、レオの表情はまるで人形のように変化が見られない。食事をする前も最中も、彼女は変らず、機械的に食べ物を口に運ぶだけだった。まだ幼い胸の中に《復讐》という炎が灯ってしまってからというもの、これからのことを考えると、少女の顔はいつも憂鬱そうに曇った。


 レオがゆっくりと食事にありついている間に、スレイは倍の速さで皿のほとんどを空にしている。がちゃがちゃと食器が音を立てるのも構わず、早食い大会の選手のようにあっという間に平らげてゆく様は気持ちのいいものがあったが、レオは眉根に皺を寄せないではいられなかった。


「味わえって言ってるだろ」と咎めてもよかったが、この男曰く、数年間飲まず食わずで森の中で眠っていたようなので、今までの分を身体が取り戻そうと必死らしい。一体彼は何年の間、あの森で孤独を過ごしたのだろう。暗く、時間という概念が希薄なあの空間で。


 二人の間に会話が生まれることはない。まるで他人同士の相席じみた、妙な沈黙がある。

 隣の席の酔っ払いたちの、品のない会話がいやに大きく響き渡る店内に、徐々に人が集まってくる。

 レオは眉間に皺を刻んだまま、小さくため息を吐いた。とにかく、今日は疲れた。食事を済ませたら早々に部屋へ引っ込んで寝てしまおう。明朝の出発に備えて、夜更かしは厳禁だ。


「なあ、あんた」


 舌先で歯の間に挟まった食べかすを取っているような顔で、スライが声をかける。


「なんだ」

「あんたのその剣」


 レオはスプーンを置いて、傍に立てかけた赤い石の飾りの付いた愛刀を手にした。


師匠イオリがくれたものだ。私が正式に自警団入りを果たした日に、職人にこしらえさせたんだそうだ」


 レオは愛おしそうに、白い鞘に包まれた剣を見つめた。


「立派な拵えだ」

 スライは素直に褒めた。ほんの少しだけ、レオの愁眉が開く。


「こいつは私の人生だ。私はこの剣と共に死ぬ。何年先かはわからないが……少なくとも、それは目先のことではない」


 その時だった。


「なあ、兄さんたち、他所者だろ。こんなところで旅行? 新婚旅行かな?」


 隣のテーブルで飲んだくれていた赤ら顔の若い酔っ払いたちが絡んできた。四人で狭いテーブルを囲み、食べかけの料理皿の他に、傍らには空のジョッキがいくつも密集している。


「はあ? 何言ってんだクソガキ。んなわけねえだろ」

 会話に水を差されて、迷惑そうにスライが言った。


「え~、そうなの? こんな美人な姉ちゃんと一緒なのに?」


「男女の組み合わせと見るなり、勝手にカップルに仕立て上げるんじゃねえ。残念だが、てめえらの期待するような関係じゃないぜ。俺らは共に同じ相手を殺しに行くところなのさ」


「おい、黙れ。余計なことを言うな」


 口調のわりに喜々とした顔でおしゃべりに花を咲かせようとしていたスライの足をテーブルの下で蹴る。「いて」と漏らした彼は、肩を竦めて口を噤むと、


「おら、人間ども、気安いぞ」と、今度は手のひらを返したようなつれない態度で、今しがた運ばれてきたばかりの二杯目のワインを舐めた。


「なんだよ、その言い方」

 酔っ払いは不機嫌そうに顔を顰めた。


 アルコールが回っていると頭に血が昇る性質か。

 レオは食事する手を止めて額に手を当てた。


「あの、君たち、悪いけど、私らのことは放っておいてくれないか。明日にはこの町を出る。宿で一晩世話になるだけの通りすがりの旅人なんて、無視してくれよ」


「なあ、じゃあおれの部屋来いよ。一晩中世話してやるぜ」


 酔っ払いの手が馴れ馴れしくレオの肩を抱く。


「離せよ」


「遠慮しなさんなって」


 こんな狭い酒場で争い事を起こすのは本意ではないが、まるで恋人化のように気安く肩をぐいぐい抱き寄せるこの無礼千万な男を叩斬ってやりたいと思わないではいられなかった。


 女だと思って舐めやがって……!

 レオの頭の中で燃え滾るような怒りが発露したその時、目の前に座っていたスライが、かたんと音を立てて立ち上がった。

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