第3話 囚われの夜 三

「よいしょ」


 不自然に湾曲した格子の間をすり抜けて、スライは牢屋を脱出した。

 足元には、額を赤くしながら目を回している若い男が倒れている。腕には自警団の腕章が巻かれていて、腰には小型のピストルを武装した立派な自警団員だ。


 スライの見張りを命じられていた自警団員は、この地に配属になったばかりの新米だった。まだ薄汚れた俗世など目にしたこともないような、純真無垢なこの青少年は、上司の命令に忠実に従い、檻の中で飽くことなく暴言を吐き続ける見た目も中身もガラの悪い魔族の男を、扉の横に立って、穴が開きそうなほど監視していた。が、その初々しくまっさらな絹を思わせる美しい心を持った青少年は、この魔族が急にしおらしくなり、


「ちがうんだ……は本当は何もしていないんだ。あの酔っ払いたちにはかられたんだよ」


 と、しくしく声を上げながら語りだす虚偽しんじつに同情しないではいられなかったらしい。

 純粋な彼は、「その話は本当かい?」と丁寧にも、そっとしゃがみ込みながら格子に近づいた。


 読者の皆様におきましては、シルベスターと言うこの男の性格をご承知いただけている頃であろう。

 かの男は魔の世界の生まれであり、人を騙すことにおいて罪悪感どころか、世界の汚れた部分など拝んだこともないであろう青少年に頭突きをお見舞いして気絶させた挙句に鉄格子の形を変え、あまつさえ、空っぽになった牢屋の中に目を回している彼を放り込み、格子を元の形に戻して、何事もなかったかのように手に付いた埃をぱたぱた叩いても、頭の片隅、心の一片にも、良心の呵責などというものは生じないのである。


 スライは気を失った新米自警団を一瞥し、「すまんな」と言葉だけの謝罪を放り投げる。去り際、格子の隙間から手を差し込んで、彼のホルスターからピストルを抜き取るのを忘れずに、その場を後にした。


 扉を潜ると、先には狭く薄暗い廊下が続いている。両の壁には似たような木の扉がずらりと並んでいるが、中から人の気配はしない。ここへ連れて来られた時に見た外装はさほど大きくないように思われたが、中に入ってみると部屋同士が極端に狭く、かつ薄い壁で仕切られているせいか、扉同士の間隔はかなり窮屈そうだった。


 スライはピストルをズボンの前に差し込むと、耳を澄ませて辺りに人の気配がないことを確認した。まるで廃墟のど真ん中で立ち尽くしているかのような気分になった。この建物内には確実に誰かが存在しているはずなのに、彼の耳朶に触れる音という音は、魔族の存在に怯えでもするかのように姿を晦ませてしまった。


 スライはレオの居場所を探して、ズボンのポケットに手を突っ込んで堂々と歩き出した。

 彼には「ここの人間に見つからないように注意しながらレオを探しだす」というセオリーはないらしく、現に次の瞬間、廊下の曲がり角でばったりと出くわした三人の自警団を一呼吸のうちに叩きのめし、これから先、出会う相手出会う相手を文字通り瞬きの合間に片づけながら、廊下に張り付いた木の扉の一つひとつを確認してゆく。けれど、どこにもレオはいなかった。


「ここにもいねえ。あいつ、どこに閉じ込められてんだよ」


 いくらか建物内を彷徨い歩いたころ、目の前にひと際大きな扉が現れた。赤い塗装が施され、丸いノブの下には頑丈そうな鍵まで付けられている。

 中からは数人の男たちの重々しい声が聞こえた。人間よりも鋭い五感を持った魔族スライの耳は、その中に、酒場で彼らを捕らえた「ゲオルク」という男の声も見つけ出した。


 残酷な戯れを楽しむ悪魔のようにニィ、と唇の端を釣り上げたスライは、高々と足音を響かせながら、赤い大扉に歩み寄った。


「邪魔するぜぇ!」


 ごつごつした靴底が扉を乱暴に蹴ると、豪奢な見た目とは裏腹にそれは簡単に開いた。開いたというよりは、上部の蝶番が破壊され、下部に取り付けられた金具だけでなんとか扉と言う体を保てている状態である。


 中にいた人々は長テーブルを挟んで額を突き合わせていたようだが、皆、突然の闖入者に声を失って扉の方を見つめている。全部で七人。みんな男で、年齢もそう差はないように見受けられた。


 広々とした部屋には大きな書棚や、簡素な黒板が使用感を残したまま備え付けられていた。他にも、大きな窓を覆うベロアの赤いカーテンや、西洋甲冑、壁には銀の細剣レイピアがかかっている。牢屋はあんなぼろぼろで手入れも行き届いていないのに、この部屋はたいそう金がかかった内装である。


「ちっ」


 スライは湧き上がる腹立たしさに従って舌を打った。


「お、お前……どうやって牢を出た」


 と、ようやく言葉を発したのはゲオルクである。長テーブルの真正面、その場にいる全員の顔が一目で見られる位置に座っている。


 スライはその問いには答えず、再びブーツの底を鳴らして歩き出した。長テーブルの端々がざわつく。制止の声が飛ぶも、スライは全く意に返さない。それどころか、上等な生地で拵えられたクロスのかかったテーブルによいしょと足をかけ、たった一人、高いところからその場にいる全員を見下ろした。

 スライは、ゆっくりと足を前に進めた。それぞれの前に並んだティーカップが、彼が前進する度にソーサーの上でガチャガチャ音を立てた。繊細な刺繍が施されたクロスにはくっきりと靴底の跡が付く。


 席に着いた十四個の目が、馬鹿みたいにスライを見上げている。想像を遥かに超えた無礼千万な愚行に、咎めることも忘れた様子である。


 スライは、微かに歯を見せながらゲオルクの前で立ち止まると、長い脚を折り畳んでしゃがみ込み、「なあ、おい」と低い声を出す。不機嫌そうな声音とは裏腹に、表情には異様な笑みが張り付き、捕らえた獲物を甚振るような残忍さが見え隠れした。


「女はどこだ。俺と一緒に居たろ? やたら背のでかい、愛想のない女が」


 長身で愛想のないという特徴を耳にして、ゲオルクもそれが誰のことを示しているのか承知していたろうに、「どうやって出たのだと聞いている!」と、怒りなのか不安なのかわからないが、微かに声を震わせて怒鳴った。


 質問を無視されたことに腹を立てたスライは、笑みを引っ込めて爆発音のような舌打ちをすると、ズボンのウエスト部分に押し込んでいたピストルを抜き取り、筒口を、何がとは言わないが後退の著しい額に突き付ける。押し当てられた冷たい感触に、ゲオルクは息を呑んで縮み上がった。


「てめえはまず俺の質問に答えろよ。女はどこだって訊いてんだ」


 大人たちは呼吸すら忘れて、張り詰めた緊張感に身動ぎ一つできなかった。飛び道具を恐れてか、誰一人としてスライの強攻を止めようとする者はいない。その中の一人が、声を震わせて言う。


「ば、ばかな、この町には先日結界が施された……! 魔族は立ち入ることができないはず」


 スライは視線だけを声の主へ向けた。頭の固そうな頑固親父といった風情だ。及び腰で椅子から立ち上がる姿は酷く滑稽である。


《結界》。魔族を寄せ付けないために、人間の手で生み出されたの一つである。


 その仕組みは、町の数か所に設置された媒介に特殊な魔法をかけ、それを通して町に近寄った魔族が持つ魔力を感じ取り、跳ね返すことで魔物は町へ立ち入れなくなる。

 どうやらこの町にもその魔法が施されているらしいのだが、しかし、今のスライに魔力は皆無。彫像にされる前、彼は母親に魔力を根こそぎ奪われてしまったからだ。


 そんなこととは露知らず、スライの尖った耳を見た大人たちは、皆一斉に怯えの色を露にし、椅子から腰を浮かせる始末。そもそも「結界」が、そんなに立派な効力を発揮することはないのだが、この辺鄙な片田舎で育った住人たちは、ちからのある魔導士が施した結界ならば絶対に安全だ、と信じ込んでしまっているようで、いざ本当に魔族の襲撃にあったときは、目も当てられぬ惨憺たる有様を描くことになるだろう。大変嘆かわしいばかりだ、とスライは嘲る。


「ハハハ……そうだよな? この町には立派な結界が張り巡らされている。雑魚魔族だろうが、魔女デライラだろうが、この町には入れぬことだろうよ」


 からかうような口振りでスライが言う。


「じゃ、じゃあ何故、お前は……」


 スライはにやりと笑って、「さあ、何故だろうな。俺が、魔王デライラをも凌ぐ大魔族だからかもなあ?」


「なっ……」


 大人たちは動揺を露にする。中には神に縋り始める姿もあった。この世に魔族は存在するのに、今なお、神様とやらは人間の前にはいっかな姿を現さない。


「うるせえ、黙ってろ。人間共の声は耳障りだ。――まったく、ひでえ話だと思わねえか。先に絡んできやがったのはてめえんとこの愚息の方だぞ。それなのに、問答無用で格子ン中ぶち込みやがって。……てめえの頭ン中にもこいつぶち込んでやろうか」


 楽しそうに舌先で唇を舐めながら、スライは引き金に強く指をかける。


「や、やめろ!」


 その時になって初めて、周囲の大人たちがスライを羽交い絞めにせんと一斉に動き始めた。が、身軽な魔族は伸びてくる数々の手をひらりと躱し、「ヒャハハハハハッ」と狂気めいた哄笑を響かせながら、天に向けた銃口から立て続けに火を噴く。高い天井にぱぁん、ぱぁん、と連続して響く破裂音。鼓膜を激しく震わす衝撃に、大人たちは咄嗟に頭を覆う。天井にぶら下がった照明器具が粉々に砕け散って、毛足の長い絨毯の上に落ちた。


「ハハハッ、いい音が出るなあ。うっとりしちまう。人間ののセンスにゃ脱帽だぜ。なあ、もっと聴いてみようか」


 スライは広い室内を飛び回りながら、弾切れの瞬間まで、豪奢な彫り物が施された天井に穴を開けまくった。


 室内は瞬く間に大惨事となった。カーテンはスライの手によって引き剥がされ、銀甲冑は見るも無残にバラバラだ。

 設えられた棚からは何冊もの本が零れ落ちる。貴重な本ばかりであったが、スライはお構いなしにその表紙の数々を踏み均した。


 引き金をいくら引いてもそこから火が出なくなったところで、ようやくピストルを放り捨てたスライは、まるで野山を駆け回る強風のような素早さで部屋を飛び出す。


「ったくよお、ここの人間はまともに言葉も通じやしねえ。仕方ねえから自分で探すわ。じゃあな! アッハハハ!」

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