第10話 罠 二


「ようこそいらっしゃいました。さ、こちらへ」


 かの冷酷無比なミラージ・アブルィーフのセリフである。

 彼の前には、銀縁の眼鏡をかけた痩身の真面目そうな中年男性がソファに腰を下ろしているところだ。 

 銀縁眼鏡の奥に光る細い目は、彼の真面目そうな人となりを欺くには些か鋭利すぎた。


 館内の応接室では、先ほど部下たちの会話にあった《大事なお客様》を出迎えて大事な商談が始まる。


「どうだい、今回は」と咥えた葉巻に燐寸で火を灯しながら、客人。その仕草が妙に様になってる。

 ミラージは彼の前にゆったりと腰を掛け、うっそりと微笑みながら灰皿を進めた。


「ええ。見目は申し分ございません。従順なのが揃っております。本日の暮れに、もう一隻の船が仕入れを終えて帰ってきますが、そちらの方もご覧になりますか?」


「ああ、是非」


「畏まりました」


 その時、部屋が微かに揺れた。

 どしん、どしん、という揺れが、二度ほど続いた後、今度は地鳴りのような不穏な音が響く。


「おや、地震かな?」


 その直後、もう一度、今度は今より大きな揺れに見舞われる。


「フフ」


 ミラージは、細い指先を口元へやりながら微笑をもらした。


「うん、どうしたねアブルィーフくん」


「いえ、失礼いたしました……。少々、生きの良すぎる魚たちが暴れているようです」



 刃は、確実に傀儡の関節部分を破壊している。木の胴体はレオの剣で叩き切ることは不可能ではないが、骨の折れる作業である。だが、首、胴、肩、肘、膝など、脆弱な作りとなっている関節部を突くことにさして苦労はしなかった。


 繰り出される銀の一閃は木片を散らしながら傀儡の首を刎ね、頭部を失った人形は、死んだように地面の上でバラバラに崩れ、動かなくなった。そうしてできたガラクタの山は、すでに彼らに足の踏み場も与えないほど積みあがってきている。


「まだか! まだ出てくるのか!」


 先頭で暴れまわるスライが、うんざりしたように怒鳴った。

 もうどれくらい時間が経ったのだろう。彼らは、蝋燭が灯す遠くまで続く道を、傀儡を退治しながら進んだ。


 背後を見ても、前方を見ても、行き止まりと言う行き止まりは視認できなかった。それに加え、前方から大波の如く襲い掛かってくる傀儡たちも一向に数が減らない。スライは向かってくる木の塊を片っ端から捕まえ、胴体から首をねじ切るという骨の折れる作業を延々と続けなくてはならないのではという思いに、飽き飽きしてきた頃だろう。


 彼同様に体術で傀儡を迎え撃つフレッサーも、体力の限界が近付いてきていることを意識しないではいられなかった。


 彼女らを襲うのは、紛れもない疲労。終わりの視えぬ死闘に、心は折れそうになる。


 どれほどの時間が経ったのか、何体ぶっ壊してやったかなどと考えるのはやめた。そんなことを考えている間に、傀儡の固い手が首に巻き付いてきそうになるからだ。


 斬る。首を落とす。それだけを考えて、前軍の三人は走った。


 事切れた木の山をせっせと歩きながら、後方の三人は励まし合いの言葉を交わしていた。

 大丈夫。絶対に外に出られるよ。ほら、凄く頼もしい背中だ。それにスライくんは魔族なんだ。ただの木でできた人形なんかには負けないさ。レオさんも、フレッサーもあんなに強いんだから。


 その時だった。アンブルの死角から、一体の傀儡が、ぬうっと現れた。


「ひいぇ!?」


 妙な悲鳴を上げたアンブルが、エーデルとレティに突進するように身を寄せると、腰が抜けてしまったのか、その場にぺたんと尻を付けてしまう。


「あ、あ……」エーデルは、眼前に現れた気味の悪い無の顔に、全身が粟立った。感情の読めぬ人形がどうしてこんなにも不気味なのだろう。エーデルは動くことも助けを求めることも出来ず、固まってしまう。


『け……て……』


 微かに聞こえた声。ここにいる誰のものでもない。


『た……』


 また聞こえた。誰の声だ。


 エーデルは、ふと、目の前のと、目が合ったような気がした。


 ――『助けて。ここから出して……』


 ああ。この子の声だわ。

 エーデルは幻聴かと思っていた不気味な声が、今、目の前で己に手を伸ばしている傀儡が、助けを求める声だというのを悟った。

 さああ、と目の前の景色が暗転する。今度ははっきりと聞こえた。


『助けて! 助けて! ここから出して! もう逆らわない! 大人しくするから!』


 ああ、この傀儡は……。

 エーデルは、レオたちに向かい来る木の塊の大波に目を向けた。

 この傀儡たちは、ミラージ・アブルィーフに逆らった者たちの成れの果てなのだ……。

 その時、エーデルの肩を誰かが後ろに強く引いた。体勢を崩した彼女は、暗転していた視界が元に戻ると、目の前に華奢な猫背があることに気が付く。


「レティ……」


 レティが、傀儡を押さえつけ、今にも泣き出しそうな声で、「こんな人形の中にいるより、早く外へ出た方がいい」と言った。彼はそのまま傀儡を壁際に押し付けると、「ううううう!」と泣きたいのを我慢する子供のように叫んで、木の頭を壁に叩きつけた。ぱきゃっと音を立てて粉々になったそれから、もう声が聞こえてくることはなかった。


「エーデル……」彼は半分泣きながら振り返って、「大丈夫? 怪我しなかった?」と、腰を抜かした二人に柔らかな手を差し伸べた。


「ええ……ありがとう」とエーデル。

 アンブルは格好悪いところを見られて照れているのか、ふくれっ面でその手を取り、小さな声で「ありがとう」と言った。


 前方ではレオがとうとう弱音を吐かずにはいられなくなってしまったようだ。

「出口はまだか!」息も絶え絶え。剣を握る手が震えてくるのをどうすることもできなかった。そしてなんとか、上がらない腕を叱咤して、目の前の一体を切り伏せると、ようやく前方の視界がクリアになる。


「よし、今だ! このまま突っ走るぞ!」


 スライの一声に全員がわずかな期待を抱いた。ここの一員にならなくて済む! そう思ったのだが……。


「あ、あれ?」

 フレッサーが間の抜けた声を出した。「行き止まりじゃないか」


 目の前に現れた石の壁に、その場にいた全員が愕然とした。


「分かれ道なんかなかったよな?」


 レオが確認の意を込めて訊ねるも、誰も「あった」とは口にしなかった。


 「どうする――」と、フレッサーが来た道を振り返り、絶句した。つられるようにしてレオたちも背後を振り返る……。


「まじかよ……」つい零れた絶望を意味する言葉。レオは額から滴る汗が地面に落ちるのを見た。


 そこには、仲間の屍を踏み越えて、生きた人間の体温を求めるかの如く、またあの無機質な大波が押し寄せてきているのだ。

 ぞろぞろと波を打った頭部が、傍の蝋燭に照らされて赤くなったり、暗くなったりする。


「まだ、あんなにたくさん……」


 レオは思わず両膝に手を付いた。剣を握る手が汗で滑る。腹が空いた。矢が射抜いた個所から、思い出したようにじくじくと痛み出す。傀儡を倒すことに集中していた時には感じなかった感覚が、最悪にも今この瞬間、弱ったこの体に襲い掛かってきた。


 その時だった。隣にいたスライが「ハハハハハハハッ」といきなり笑い出した。

 終わりの見えない戦闘に、ついに狂ってしまったのかと思ったが、彼は汗を浮かべたたいそう愉快気な顔で、「なあ、俺はもう、疲労なんざ感じなくなってきたぞ。麻痺してんだ」と言った。瞳孔が開いているのは、ここが薄闇だからか、それとも、彼の体内で溢れたアドレナリンが、魔族の闘争本能を爆発させたせいなのか――。彼は汗ばんだ前髪を後頭部に撫でつけ、もう一度哄笑を響かせた。


「もうひと頑張りだ! 俺はやれる。お前らは? まだいけるだろ? なあ!」


「……発破かけてんのか」


 レオは濡れた掌をジャケットで拭い、剣をしっかりと握り直した。「応」の合図だ。


 その時、レティが足元にあった、掌より一回り程大きな石を拾い上げた。


「アンブル、エーデルを頼んでいいかい?」


「どうして?」


「ボクも戦う」


 掌にずっしりと、冷たくかたい感触が収まる。


「ちょっと……。大丈夫なの?」


 アンブルは心配そうに訊ねた。レティは、自信がなさそうに、しかし、確実に頷くと、「ボクもここから出る……。だから、ボクも戦わなくちゃいけないよ」


 掌が石をぎゅう、と掴んだ。「もう、弱虫でいることが嫌になっちゃった」


 その言葉を聞いていたスライの口から「良い!」と、称賛の声が地下道に響き渡った。


「うわあああああああああ!」


 意を決した叫びと共に、レティセンシアは、傀儡の群れの中へと突っ込んでいった。

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