第10話 罠 三

 レティセンシア・ラビオス。売れない絵描きだ。

 来る日も来る日も、おんぼろアパートの一室で、窓を開け放って、カンバスに向かっている。


 絵を描いている時間は、まるで彼の中の時が止まったかのようにのんびりと流れた。

 空腹を忘れ、喉の渇きを忘れ、眠るのを忘れ……筆にとり憑かれでもしたかのように、右手は布の上を行き来する。


 絵が完成する。公募に出す。落選。

 人としての生活を犠牲にして作り上げた絵は、誰からも評価されることはなく、クローゼットの中に立てかけてしまわれる運命にある。そんな絵が、もう何十枚目か……数えるのもうんざりだ。


 自棄酒をした。たいして強くもない酒に溺れたくなった。いくら描いても売れない絵を描き続けることに嫌気がさしたわけではない。ただ、他人が望む絵を一向に描き上げることのできない自分に嫌気がさしていたのだ。


 絵しか描いてこなかった。その他のものから逃げてきた。そのツケが来たのだ。縋りに縋って描いてきた絵すら中途半端な実力で、誰からも認めてもらえることはない。


 成人を迎えて数年。絵を描き始めて十年。全てが無駄に思えてしまった。ポケットに突っ込んでいたなけなしの金を叩いて安酒をかっくらう。まずい。酒の味なんてわからない。ボクは果実を絞ったジュースの方が遥かに好きだ。


 酒場を出たのはうに夜も更けたころ。

 ふくろうの鳴き声が聞こえてくる。

 レティはアパートとは反対方向の道をふらふらと歩いて行った。

 部屋の中では、イーゼルに描きかけの絵がかかっている。

 今は、あの極彩色を見るのが嫌だった。その絵も、日の目を見ることなくクローゼットの中の一部となってしまうのだろうと思うと、自分が情けなくて、カンバスに顔向けができなかった。


 このまま行く当てもなく歩いて……それからどうしよう。いっそ、酔った勢いに任せて身投げでもしようか……。


 気が付くと、レティは崖の上――ではなく、真夜中の海岸に足を運んでいた。もちろん人影はない。

 空には筆で払ったような細い三日月が浮かんでいる。


 叩きつけるような潮騒が全身を満たす。


 死ぬ勇気なんてなかった。生きる勇気もなければ、死ぬ勇気もない。ただ無為にこの世に存在しているだけの、無駄そのものだ。ここに来て何かが変わるわけではない。所詮はこれも逃げなのだ。無駄なんだ。ボクは無駄に生きている。


 死ねるものなら……いっそのこと――。


「なあ、おい」


 その時、背後から誰かに声を掛けられた。レティは億劫そうに振り返り、そこにいたやけに人相の悪い男の顔を見て、無意識に顔を歪めた。なんだ、いきなり「おい」だなんて。無礼な奴だな。


「なんでしょう……」


 レティは、据わりきった目で返事をすると、相手の男は馴れ馴れしくも隣に腰を下ろし、「どうしたよ、浮かない顔して」と肩を寄せてくる。男にこんな近寄られても嬉しくないのだが……と、女性に一度も好意を寄せられたことのないレティは思った。


「いいえ、なんでも……。ただ、生きるのが億劫になってしまっただけですよ」


「へえ。なんで?」


「……」


 レティは、なんで見ず知らずのあんたにこんなことを話さなくちゃならないんだ、と思わないではいられなかった。……いられなかったのに、どうしてだろう。気が付くとレティは、この馴れ馴れしい見ず知らずの怪しげな男に、己の不遇な身の上話を話していた。

 話している最中に、「なんでボク、こんな見ず知らずの人にべらべらと……」と思わないではいられなかった。それくらい追い詰められていたのだろうか。


 一通り話を聞き終えると、男は「そっかあ……」と同情したように言い、天を仰いだ。

 別に助言を期待しているのではない。ただ、誰かにこの胸の内を明かしたいだけだったのだ。現に今、レティ青年の頭の中は、靄が晴れたようにすっきりしている。

 胸が軽い。普段から丸い背中が、今だけはぴんと伸ばせそうな気がした。


「あの、ありがとう……。あなたに話を聞いてもらったら、なんだかすっきりしたよ」


 レティは不器用に微笑して、すっくと立ちあがった。潮風に晒されて少し酔いも覚めてきた。他人に弱音を吐いてしまったことに僅かに羞恥を感じながら、小さくぺこりと頭を下げる。


「帰るよ。明日早起きして、また絵を描きたい」


 その瞬間、後頭部に物凄い衝撃が走った。


 ……。

 気が付くと朝を迎えていた。

 遊歩道で体を丸めて眠っていたらしい。刺すような白い陽光に促されて目が覚めると、いやに頭が重いことに気が付く。二日酔いなんて初めてだった。


 馬鹿なことをした。ろくに金もないのに、安酒なんかを浴びるように飲んで。情けないと思わないか。己のなかで冷静な己が嘲るような声がする。


 昨日の彼は当たり前だが、もういなかった。……あれからどうなったのか、記憶の一部が欠落している。いつの間に眠ってしまったのだろう。


 痛む頭を抱えながら起き上がると、途端に胸のあたりが熱くなった。別に感動しているわけではない。単に胸やけを起こしているのだ。


 レティはふらふらと立ち上がった。帰ろう。死ぬかどうかは、また今夜考えよう。どうせ死ねないのだけれど。

 痛い、頭が痛い。二日酔いってこんなに辛かったのか……と、レティは妙な違和感に気が付いた。


 ――これ、本当に二日酔いか?


 明らかな二日酔いの頭痛と、もう一つ。これは明らかに、外傷によって生じた痛みだ。


 ズキズキ……ズキズキ……。

 目の前に広がる早朝の景色が不意に歪む。降り注ぐ白い陽光が、黒い絵具に塗りつぶされるように、徐々に目の前の景色が闇に溶けてゆく。


 レティは、はっと息を吸い込むようにして、目を覚ました。そこには、朝陽に煌めく海も、鼓膜に打ち寄せる潮騒も存在しなかった。

 ただ、ゆらゆらと漂うような不規則な揺れと、真夜中に頭だけ覚醒した時みたいに自由の利かない四肢、寝っ転がった肩と腰が痛いな、という感覚のみが徐々に明らかになっていった。


 自分が人攫いにあったと知ったのは、この船から下船したあと、埃っぽい地下室に閉じ込められた時だった。

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