第10話 罠 一

 剣も取り戻せた。さあ、残る問題は、ここにいる全員で無事バレずに屋敷を脱出することが出来るのか。

 人数が増えてしまったことにより、身動きは取りづらくなってしまったが、みんな、理不尽な理由でこんな所へ連れて来られたのだ。全員でここを脱して見せる。なんとしてでも、全員で帰るべきところへ帰るのだ。


 先頭は相変わらずのスライ、その後ろにレオ、エーデル、幸の薄そうなそうな彼――レティセンシア、通称レティ、賢そうな彼――アンブル、殿しんがりをガタイの良い彼――フレッサーが務める。


 ミラージの部屋を出て、まずは真っ直ぐ進み、突き当りを右に曲がる。


 誰もいない。不自然なほど人の気配が少ないが、これはこの上ない好都合である。いくつもの扉を右左に見、爪先に全神経を注いで、足音という足音をこの世に残さぬよう歩む。毛足の長い絨毯が、六人分の足音を飲み込んでくれる。

 魔族の五感も真冬の空のように冴え渡っていた。屋敷の端から端までを見渡せるような全能感。頭に浮かんだ逃走経路の上には邪魔者一人いない。このまま行け。立ち止まらずに。思考の中でそう叫ぶ己の絵が反響するのが聞こえた。

 塞がりつつある傷口が快楽に似た熱を持つ。――早く、早く上げさせる。勝鬨の声!


 順調だ。何もかもが。希望が陽光のように降り注いでくるようである。殺した足音の他には何も聞こえない。怖いとすら思える静寂。けれど、ああ、けれど! この沈黙を抜けた先で、打ち寄せる潮騒しおさいが自由を手に入れた彼らを祝福してくれる。悪鬼の城から抜け出した彼らを、大海原は拍手喝采で出迎えてくれるのだ!


 ――感覚がマヒしていたのかもしれない。おかしいことに気が付かなかったくらいに。こうも呆気なく逃走経路を駆け抜けていることが、この上ない不自然の権化だった。出口を目前に控えた全員、もう自由が手に入った気でいたのだ。


 昨日、大怪我をしながらこの玄関を潜ってきた。ここを出れば、彼らは自由になれる。――はずだった。


 もうじに玄関扉に手が届く。ほんの三馬身ほど先に、自由があった。望んだ自由が、彼らの指先にかかるのだ。


「止まれ! お前たち!」


 どこからともなく、怒鳴り声が聞こえた。ここにいる六人の、誰の声でもない。

 その声にはまるで言霊でも宿っていたのだろうか、全員が一斉に立ち止まり、目先の自由に手を伸ばしたまま固まった。


 ――まずい。


 六人の脳内が、一気にへと引き戻される。


「ミラージの声……!」と、レオが呟いたその瞬間であった。

 ガタン、と大きな音を立てて、。視界から煌めいた調度品の数々が消え、世界は無のような暗黒に支配される。何もかもが一瞬のうちにひっくり返る感覚。突然の浮遊感に襲われ、今の状況を脳が理解するより前に、腰を底に何かに打ち付けた。


「いッ…………~~~~~~~」


 落ちた衝撃は、レオの全身の傷に容赦なく響いた。

 声にならぬ悲鳴が喉から漏れる。したたか打ち付けた尻を浮かせて擦りながら、悲鳴を上げる傷口に顔を顰めていると、他の五人も同じようにお尻や背中を擦っている様子が、気配で確認できた。


 痛さに身を震わせながら、レオは上を見上げた。どうやら床が開いて、下に落下する仕組みになっていたらしい。そしてその仕組みを作動させたのは、他でもない……。


「アッハハハハハハ!」


 こちらを覗き込んだミラージが「ああ、可笑しい」とばかりに腹を抱えて笑いながら、「愚者の集まりだったな」と吐き捨てる。


「ミラージ……! てめえ!」


 立ち上がったスライが、火を噴くような勢いで食って掛かる。


「たまにいるんだ。お前たちのような愚か者が。お前らももれなくその類の輩だと思ったのでな。敢えて泳がせておいたんだよ。特に、そこの二人」


 ミラージの左目はレオとスライを捉え、にやりと三日月型に歪む。そこには、静かだが明らかな凶暴性を秘めた光が満ちていた。


「言ってもわからないなら、荒療治を施すしかないだろ? 大丈夫、死にはしないよ。少し怖い思いをすることになるけどな。せいぜい反省しろ。次に会うときには《もう二度と、ミラージ様に逆らいません》と土下座をさせてやる」


「ま、待て!」レオの制止は聞き入れられることはなかった。


 ハハハハハハハ……、耳にこびり付くような高笑いが遠ざかってゆくと同時に、床がゆっくりと閉じてゆく。がこん、と大きな音を立てて閉まると、視界はたちまち真っ黒に塗りつぶされた。遠ざかってゆく足音。ああ、またしてもこのような状況に陥ってしまうとは。安心してしまった。こんな単純な罠を見抜けないほどに、気が緩んでしまっていたようだ。――気が緩んだ……本当に、それだけだろうか。


「クソッ」


 レオは立ち上がって地団太を踏んだ。埃が立ったようで、喉がイガイガする。

 その場にいた全員が、声を失うほどの絶望に打ちひしがれていた。目の前に見えていた希望はまやかしだったのだ。


「ミラージ・アブルィーフ……! 徹底的に殺す……!」


 噛みしめた唇から血が滴り落ちる。


「ああ、どうしよう……こんな、暗闇……どうしよう、どうしよう……」


 死のような闇の中、エーデルは挙措きょそを失ってしくしくと泣き出した。誰も彼女に声をかけることをしなかった。否、できなかった。絶望の沈黙が、彼らの感情を叩き壊してしまったかのように。


 レオは周囲を見渡した。視界に張り付いた闇の向こうには、深い深い悪夢じみた《気》が沈んでいるようだった。


 するとその時、ボッと音を立てて、何かが燃えるみたいにオレンジ色の光が生まれた。

 灯りの出所を全員が振り返った。その先には長い一本道が続いていた。壁には蝋燭が立てられており、果ての見えぬ道の先まで等間隔に続いていた。


「な、何かしら……」エーデルが不安そうに呟く。視界は確保できたが、それ以上にその先にある無限にも思われる空間が不気味だった。

 彼女とアンブルは、何か出てくるのではないかと、怯えたように手を取り合っていた。そしてその不安は的中した。


 ヒタヒタヒタと、何かが近付いてくる。人……? 一人や二人ではない。大勢……。でもなんだか不思議だ。蝋燭の灯りの向こうから何かが近付いてくるのが見えるが……人だ。人なのだ。しかし、何かがおかしいのである。姿かたちは間違いなく人だ。


「なんだあれは……」フレッサ―が目を眇めて呟く。


「わからない。何が、近付いてくるんだ」レティは白い顔を青く染め上げながら、腰を引いた。


 音が変わった。ヒタヒタ……から、カタカタ……カタカタと、細いハイヒールが木の床をそっと踏みしめるような音に変わったのだ。

 薄闇にぼやけていた像が徐々にはっきりしてくる。


「木だ……」アンブルがぼんやりとした声で言った。「木でできた人形が、こちらへ向かってきているように見えるんだけど……」


「おれも」


「ああ、私もだ」


 全員が目を眇めながら同意する。

 カタカタと石畳を踏む音に混じって、木の関節がかくかくと鳴る音も聞こえる。

 つるりとした頭部に蝋燭の光が反射する。凹凸さえない顔面は、そこにあるべきものがない恐怖を一身に煽り、かつそれが、何体、何十体と隊をなして真っ直ぐとこちらに近づいてくるのだから、不気味さは想像に難くない。人間の形をしていながら、人間としての役割を担う器官が欠落しているというのは、シンプルな恐怖を掻き立てるのだ。


「なんだあいつら!」


 レティはいよいよ恐怖に呑まれてしまいそうだった。上擦った声が涙に濡れる。

 恐慌はたちまち伝染し、アンブルは全力疾走した直後のように激しい呼吸を繰り返した。エーデルも腰を抜かしてフレッサーにしがみ付くも、彼もまた、不気味な軍隊の目的が自分たちであると悟り、恐怖に身を固めている。


「落ち着け。ミラージは、死にはしないといった。少し怖い思いをするだけだ、と」


 冷静であろうと努めたレオが言うと、


「でも、怖い思いはするんだろ?」と、今までで一番大きな声出しながら、レティが返す。


 そんな中で唯一、今まで黙っていたスライが、喜々とした声を上げた。

「仕方ねえな。お前ら、下がってろ」


 全員が、得体のしれない傀儡くぐつに身動きが取れないでいると、レオとスライは、率先して四人の前へ出、戦闘態勢をとった。


 この手に取り戻した愛刀を鞘から抜く。シャア、と刃が鞘の内側を走る音は、これから始まる殺戮を告げる戦いのゴングだ。


「魔法がかけられただけのただの傀儡だ。魔界の雑魚共も欠伸が出ちまう。お前は、その剣でただひたすら斬って斬って斬りまくればいい。あんな人さらい屑野郎に、簡単に泣き顔なんて見せてやるかってんだよ」


 スライはやる気に漲った様子で腕まくりをする。こんな瞬間でさえ、彼はとても楽しそうな顔をする。


「ああ、死ぬほど危険じゃないらしいからな。抗うしかないだろ」


「いや、待って、おれも混ぜてくれよ」


 と、手首を回してレオとスライの間に割り込んできたのは、フレッサ―だ。


「……おれも多少だが、腕には自信がある。一人で世界を旅してるんだ。危険な目にも少なからず合ってきた。そんなときに信頼できるのは己の運と腕っ節よ」


 レオは微かに笑みを零し、「助かるよ」と剣を構える。


「二人はエーデルを頼む。一応、そっちには一体とて行かせるつもりはないが、もしもんときは頼むぜ」


 スライの言いつけに、アンブルとレティは不安そうに頷いて、エーデルを背後に庇った。


 傀儡の軍隊はもうすぐそこまで迫っていた。カクカク、カタカタ。一つなら耳に心地いい音も、こうも群れを成すと些か耳障りである。


「ヒャッハハハハ! そうら、来い。俺が全員ぶっ壊してやる!」


 スライの笑声を合図に、銀色に輝く剣尖が薄明りの中に残像を引いた。

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