第9話 大脱走
スライが先に地下室から出る。外にいた見張りは、給仕係たちが出てきたと思ったのか暢気に欠伸など噛み殺しながら、「早いな、もう終わったのか?」と振り返った――が、そこにいたのが仲間の顔でないとわかるや否や、叫びだそうと大口を開けたるも、それよりも早くスライの掌底が見張り役の顎を捉え、見事
レオは物置にあった誰のものかわからない埃塗れの外套を無理矢理引き裂いて、不衛生極まりない猿轡を噛ませて、手早く地下室の中へ押し込む。
見事な連携。見張り役に悲鳴一つ上げさせる暇さえ与えなかった。
「よし、行くぞ」
スライは昨日の失敗を糧に、更なる慎重を喫して、監禁場所からの脱出を試みた。いくらなんでもゆっくりすぎないか? という速度で、廊下へ通じる扉を開ける。
エーデルが、「出口までの道のりは覚えてる?」と可聴域ぎりぎりの声量で訊ねるのに、レオが同じくらいの小さな声で答える。
「ああ。けど、すまないが、この屋敷を出るのは私の剣を取り返してからだ」
「剣?」
「私の大事な人の形見なんだ」
「その剣って、柄のところに赤い石が下げてある、細身の剣かしら?」
レオは、彼女の的を射た剣の特徴に少し驚いて、「ああ、そうだ」と頷く。
「その剣なら、ミラージの部下が大層気に入った様子で持っていくのを見たわ。あの宝石に値打ちがあると思ったのね」
「チッ、ここにいる奴らはどこまで業突く張りなんだ」
込み上げてくる怒りをなんとか抑え込んで、先に廊下を出たスライから「大丈夫だ」の合図を受け取ると、二人は床に体重を乗せないよう、猫のように歩いて廊下を進んでいった。
部屋を出てからしばらくは、屋敷の中に果たして人はいるのだろうかというほどの静けさに沈んでいたが、廊下を一本曲がった先で、微かに人の行き来する気配がする。なんだか忙しない様子だ。
エーデルは不安そうに肩を震わせていた。
行き当たる部屋、行き当たる部屋に侵入し、目的のものを探す。家具の全く置かれていない無機質な部屋ばかりが三人を迎え入れるばかりで、どこにも剣はない。
はずればかりを引き当て、早くもうんざりし始めていたレオの耳に、いきなり「シッ」とスライの声が飛ぶ。
三人は反射的にぴたりと身体を壁に貼り付けて立ち止まり、呼吸すら止めて、そこに存在しない者のようにふるまった。
誰かが部屋から出てきたらしい。ばたん、と扉の閉まる音と共に、一人分の足音がこちらに向かってくる。
「お前ら下がれ、そっとだ。焦るな。角の向こう側まで下がれ」
スライは声を潜め、早くしろ、けど物音は立てるな、と視線で促す。
言われた通りに今来た道を戻ると、壁に張り付いたまま透明人間になりきった。近付いてくる足音が、さながら地獄の底から追いかけてきた悪鬼のような雰囲気を醸し出す。
けれど、そこに現れたのは現世に君臨せし悪鬼のような男、ミラージだった。背筋を伸ばし、長い髪を揺らして颯爽と歩いている。心なしか表情は硬く、なにやら急いでいるような雰囲気だった。
まさかこっちに曲がってこないだろうな、と緊張に身を縮こまらせた三人だったが、幸いにも彼はこちらには気付かず、一つ先の廊下を曲がって、屋敷の入り口の方へ向かって通り過ぎて行った。
足音が十分に遠ざかったところで、スライはやや足を速めて、ミラージが出てきた部屋の扉を真っ直ぐに目指した。
エーデルはスライとレオに挟まれる形で歩みながら、周囲に不安げに視線を向けている。
「今、ミラージはこの部屋から出てきた」
「奴の部屋か?」
スライはノブに手をかけ、そっと押し開けた。
中には誰もいなかった。中に入ると、ミントとレモンの香りが合わさったようなすっきりした匂いに包み込まれる。
大きな部屋だ。一人で眠るには些か広すぎなベッド、洗い立てのシーツは真っ白で皺ひとつない。
床を覆う藍色の絨毯も、新品のようにふかふかだ。
正面の壁に設えられた本棚には雑多に書物が詰め込まれ、豪奢な彫り物が施されたクローゼットと、ヴィンテージ調の机。この部屋に居心地のよさそうに収まっている調度品の数々はどれも豪華で、スライはそれを腹立たしい様子で睨みつけていた。
「ここにあるもの全部、攫ってきた人たちを売り捌いて買い漁った物なんだろうな」
レオはふと傍にあった机の上に視線をやると、「あっ!」と声を上げる。
「あった。私の剣だ!」
見間違えるはずもなく自分のものだ。慌てて取り上げる。羽ペンや訳の分からぬ書類がまとめられた机の真ん中に置いてあったそれは、元の持ち主の手の中に帰って、安心したように見えた。
「よっし、もうここに用はない。さっさと抜け出して、船で大陸を目指すぞ」
レオたちは意気揚々と頷き、揃ってミラージの部屋を出ようとした。その時だ。スライが「待て」と潜めた声で制止を促す。
部屋の外から複数人の話し声が近付いてくる。レオとエーデルの耳には届いていないようだが、足音を伴った会話は、逸れることなく真っ直ぐとこちらに向かってきていた。
「やべえ、誰か来た。隠れるぞ!」
三人は部屋の中に急いで戻ると、スライは仕事机の下に、レオとエーデルはベッドの下に潜り込んだ。瞬間、部屋のドアがノックされ「失礼いたします」という男の声と共に、
「あれ? いらっしゃらないようだ」
「お前、返事より早く開けるなっていつも言っているだろ」
「ああ、そうでした。すんません……。この資料、机に置いておいてもいいですかね?」
ミラージの部下二人が部屋の中に入ってくる。この屋敷にあの男の部下は何人いるのだろう。見る部下、見る部下が毎回初めて見る顔ばかりだ。
スライの胸は緊張に竦んだ。何せ二人の足は、自分が隠れている机の方へ真っ直ぐに向かってきているのだから。
ここでじっとしていれば決してバレることはないだろう。しかし、万が一! この頭の軽そうな部下が書類とやらを机の下に落としでもしたら、たちまち万事休す。スライは見つかってしまう。
ここを出るまで誰かに見つかるのだけは避けたい。失神した部下の数が増えれば増えるだけ、スライたちが脱走したことがバレる確率が上昇するからだ。
ベッドの下から様子を見ていたレオとエーデルも、身体を伏せた床から心臓の音が伝わってしまうのではないかという恐怖に、早まる呼吸を顰めるので精いっぱいであった。
スライの目の前に、ピカピカに磨かれた爪先が向く。
出ていけ、さっさと出ていけ。余計なことはするな。馬鹿、早く出てけよ!
スライは頭の中で悪態をつきながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
「さ、早く行くぞ。今日は大事なお客様が来る日だ。贔屓にしてくださる取引先のボスがお見えになる」
多少頭の切れそうな方の部下が、さっと踵を返して扉の方へ向かう。
「了解です」
二つの足音はスライから離れてゆく。ホッとして小さく息をついたその時、レオたちが隠れたベッドの方から、ガン、と固い物同士がぶつかり合うような音が、誤魔化しようのない音量で響き渡った。
ベッドの下と机の下で三人の視線が絡み合う。表情からして、音の出はレオ。剣の鞘かなんかをベッドの足にぶつけてしまったのだろう。
部下たちがその物音に気が付かないはずもなく、部屋の外へ向かっていた足は再び戻ってくるなり、「そこに誰かいるのか?」とベッドの方へ一直線に向かう。
エーデルは「もうダメ……!」とレオにしがみ付き、レオも無意識に彼女の身体を抱きしめた。ああ、ついに、部下たちが床に膝を付いて、ベッドの下を覗き込ん――
「うっ」
「いっ」
突然漏れ出た二人の呻き声と、またしても異様な物音が重なった。今度は、重いもの同士がぶつかり合うような鈍い音だ。
次の瞬間、目を閉じた男の顔二つがベッドと床の隙間を覗くように倒れてくる。
見つかった! と、レオが悲鳴と共に息を呑み込んだその時、「君たち、大丈夫!?」と、明らかにレオたちに向けられている心配の声が響いた。
何が起こったのか全く理解できなかった。部下の男たちはこちらを覗き込んではいるものの、二人とも白目を剥いている。
レオとエーデルはしばらく顔を見合わせていると、目の前にあった男たちの顔がずるずると床を引きずられ、代わりにひょこっと顔を覗かせてきたのは、地下室で一緒だった賢そうな彼であった。
「あっ、お前……!」
と、レオ。言葉は荒々しいが、口調はどちらかと言えば、予想だにしていなかった仲間の登場に驚愕しているようであった。
「どうしてここに……ミラージの部下は?」
賢そうな彼は、ベッドに下に手を差し伸べ、レオとエーデルを埃っぽいそこから引きずり出す。
「君たちがこの部屋へ入った後に、こいつらが入ってゆくのが見えたんだ。このまま見つかっちゃったら、君たち今度こそミラージに殺されてしまうかもしれなかっただろ」
レオは服に着いた埃を払って立ち上がると、示された「こいつら」に目をやって、気を失っている姿を確認する。その傍では、がたいの良い彼が高価そうな壺を、幸の薄そうな彼が使った形跡の薄い銅の灰皿を手にしているのを見て合点がいく。
レオの視線に気が付いたがたいの良い彼が、「死んじゃいないぜ。加減はしたからな」と壺を見せながらカラカラ笑っている。
スライは這いずるようにして机の下から抜け出すと、美しく敷き詰められたベッドシーツの海を引き裂いて二人の手足を縛り上げる。簡易的な猿轡を作るのも忘れずに、二人の口の中に詰め込んでいると、
「楽に動けないように二人の右足と左足を括ってやろうぜ」
とガタイの良い彼が、スライに手を貸していそいそと作業を続ける。
病弱そうな彼が灰皿を落とし、床にへたり込んだままのエーデルに手を貸した。
「だ、大丈夫かい?」おどおどした風に訊ねると、エーデルは床に腰を付けたまま、「ええ、ええ」と青い顔で頷く。
レオは賢そうな彼に目を向け、「すまない。助かった。ありがとう」と素直に礼を言う。こんな風に真正面から礼を言われると思っていなかったようで、少し照れたように視線を逸らした彼は「いいよ、別に、そんなことは……」と首の後ろを撫でた。
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