第8話 屈しない心

 夜が訪れた。ミラージ邸で迎える初めての夜だ。

 頭上からカチャカチャと食器がぶつかり合う音に合わせて、木の床をごろごろと何かが転がる音が近付いてくる。ミラージの部下たちがワゴンに乗せた食事を運んできたのだ。


 天井が開いた。地上の灯りが差し込んでくる。薄暗い蛍光灯が放つそんな僅かな光さえ、地下の闇に目を慣らした彼らには酷く眩しく感じた。


 手の拘束が緩められ、目の前に使い古された銀の盆が置かれる。

 煮豆のスープと干し肉のトマトソースがけ、白パンが二つに、一杯の冷たい水。メニューに文句はないが、どうせならもう少し広いところでご相伴にあずかりたいところだ。


「毒や薬の類は入っていないから安心しな。お前たちは大事な商品だから、丁重に扱ってやるよ」


 それから二十分ばかり、無言の食事の時間が流れた。その間も部下たちは、階段に腰を下ろしながら商品たちの動向に目を光らせている。


 張り詰めた沈黙の中を、食器類がたてるカチャカチャいう音が居心地悪そうに響く。

 昼間の一件ですっかり凝りてしまったのか、レオとスライは深く俯きながら、ちびちびと食事を口に運んでいる。まるで萎れた花のように落ち込んでるな、と部下たちが目線を合わせる程だった。


 監視の下、全員の食器類はすべて空になった。気まずい無言の時間が終わりを告げる。


 一人が食器類を上のワゴンへ片付けている間に、もう一人が全員の拘束をきつく戻す。その際もレオとスライは一切の抵抗なく俯いていた。


「じゃあ、ゆっくり寝てろよ」


 二人はそう言い残して地上へと去って行った。空の食器を乗せたワゴンが遠ざかってゆく。


 一体、レオとスライはどうしてしまったのだ。俯きがちの視線にはまるで光がない。ランプの中に揺れる炎を受けても、双眸の中を満たす昏い色彩は晴れるどころか、更なる深淵へと落下を続けるかの如く深く沈みこんでゆくようだった。

 こんな所からは必ず脱出して見せると誓った強き決意は、絶対的な恐怖を有したミラージ・アブルィーフを前にして水を掛けられた炎のように鎮火してしまったのではあるまいか――。


「ふん、あいつら丁重って言葉の意味をわかっていないみたいだぜ」


 と思いきや、皮肉を吐き出したスライが部下たちの出て行った方へ向かって、べーっと舌を出す。丸めていた背中を伸ばしてふんぞり返りながら足を投げ出すさまに、先ほどまでのしおらしさは微塵も残っていない。


「食事中は見張りがいるのか」と、レオも床に座り続けて痛くなった腰を伸ばしながら言う。怪我の痛みは落ち着いているらしく、昼間より生気の宿った顔をしている。スライも、弾丸の効果はすっかり薄れた様子で、


「魔宝石を持たない人間一人や二人、俺が手こずるこたあないぜ。一瞬でから、拘束具の鍵を奪う」と、息巻いた。敵を欺くための一芝居を一時中断し、二人の胸の内にある敵対心は沈静化するどころか、時が経つにつれてさらに激しく燃え上がる。


「私と二人がかりなら、静かに事を済ませられそうか?」


「余裕だろ。注意すべくは魔法石。相手側に対魔族用の武器があるとわかっていれば油断はしない」


 スライは意気揚々と頷くと、「ようし、そうと決まりゃ俺は寝るぜ。明日の脱走に備えて英気を養わねばな」と、拘束された両手を頭の後ろで枕代わりにし、固い床に寝転んだ。


「あんたら、まだ諦めてなかったのか。いい加減にしろよ。ミラージに逆らってここで殺されるよか、全然いいだろ」


 怒りを無理矢理呑み下したような声で言ったのは、賢そうな少年だった。彼は態度からわかるように並々ならぬ恐怖をミラージに抱いている。彼に従って利口にしていれば何もされないと信じて疑わない。けれど奴はもう、ここにいる一個人の自由を奪い、設備も何もない薄暗い部屋に監禁までしてくれているのだ。その時点で、奴に希望を持つことは不可能だろうに、どうして彼はそこまでマイナスな方向でポジティブになれるのか、レオにはわからなかった。


「このまま奴の言いなりでは、自由は永遠に失われたままだぞ。それでもいいのか」


 レオが噛みつくような勢いで言った。少年は苛々したように早口で返す。


「違う、そう言ってるんじゃない。タイミングを考えるべきだ。僕たちは遠くない未来、どこか他の地へ売り飛ばされるんだ。その時に外へ出られる。そこで逃げ出すのが一番じゃないか。無事に逃げることが出来たら、すぐに通報する! そうすれば、大人たちが捜査して、この島を見つけてくれる」


「馬鹿言ってんなよ。その瞬間が、一番ミラージの目が光っているタイミングだろ。むしろ一番警戒されるはずだ」


 今度はスライが苛立ったように言うと、レオは、昼間に部下の男と交わした会話を思い出す。


 ――「何だ。何か理由があるのか。売られた奴隷たちが、ここのことを外へ漏らせぬ理由が」



 ――「いや……。おしゃべりが過ぎたようだな」


 何か理由がある。

 きっと商品たちは何らかの形で、口に戸を立てられてしまうのだ。

 その方法は?

 薬?

 催眠術の類?

 記憶を操作される?

 そう考えると、一度商品として人の手に渡ってしまえば、ここでの出来事を公言できず、ミラージ・アブルィーフは決して捕まらない。

 全て憶測だが、少なからず確信をついているのではないだろうか。どちらにしろ、地下室から脱出することは変らない。奴隷としてここを出るより早く、自分たちの意志で脱出を試みる他に自由を取り戻す手段はない。


「僕たちのことも考えてくれよ。君たちが勝手に脱走して殺されたって、正直僕はどうだっていい。けれど、君たちを止めなかったことを咎められて痛い目を見るのはごめんなんだ」


「ならば、お前は眠ったふりをしてここにいればいい。眠っている間に私たちがいなくなった、僕は何も知らなかった、と小汚い床に額を擦り付けて許しを請えば、優しいミラージは許してくれるだろうし、やがては新しいご主人様に大層可愛がってもらえるだろうからな」


 氷の気配を孕んだ、およそ人のものとは思えない声音でレオが吐き捨てる。心の底からの軽蔑の混じった視線で彼を睨みつけると、まさかそんな風に言われると思っていなかったのだろう。利発そうな目元に動揺が走る。


 レオは目を伏せて視線を逸らすと、私ももう寝る、と背中を向けて横になった。


 怒りに全身が火照って、傷がじくじくと痛みだす。けれど、こんな些細な痛みはここに留まり続ける理由にはならない。

 そんな彼女の体内を、胸に宿った青い炎が冷ます。その正体は、コキュートスの氷みたいに冷めた殺意。復讐心。今のレオノーラ・イグレシアスを突き動かすのは、デライラに向けられた頑なな執着だ。


 重い空気に包まれたまま、地下室に閉じ込められた六人は長い長い夜を迎えた。

 脱走決行は二十四時間後。世界が暗闇に包まれた、明日の夜である。



 やがて、世界は朝を迎えたらしい。ここは地下室であるが故に窓もなければ、時計などという雑貨一つありはしないので、時間の感覚に疎くなりがちだ。

 今が朝なのか夜なのかわからない中、あの男の部下が運んでくる食事だけが、時刻を知らせてくれる唯一の時計代わりだった。


 部下は今日も二人がかりで配膳をこなした。

 今朝のメニューはサラダと、白い器に盛られたドライフルーツと、冷めたパンが二つ。中には申し訳程度にクルミが混ぜ込まれている。

 コップに入っていたのは香りの強いハーブティーだ。なんでハーブティーなんだ。好き嫌い分かれるだろ、こんなもん。とレオはたいして美味くもないそれを一気に喉へ流し込む。


 昼食は、干し肉のサンドイッチが三つ、ジャガイモのスープ、冷たいヨーグルト、コップ一杯の水。それらをレオとスライは、借りてきた猫のような態度で黙々と腹の中に収めた。


 ここを脱してやるという野心を腹の底へしまい込み、好機を今か今かと待ちわびた。全身が疼いた。込み上げてくる熱意が、腹の底から爆発しそうだった。部下たちに悟られることは何としても避けたかったし、他の四人が彼女らの目論見を告げ口する心配もあったが、彼らは存外に口が堅かった。


 まるで拷問のような無為な時間が着々と過ぎてゆく。時計の秒針が時を刻むように、ランプに灯された赤い炎が時の流れを可視化し、レオの顔半分を朱に染め上げる。薄闇の果てを見つめる瞳の中に揺れた炎は、まさしく彼女の胸の内にある野心の現れであった。


 そして、ついに夜がやってきた。ゆっくりと天井が開き、運ばれてきた夜食の匂いが流れ込む。


 今までと変わらない配膳風景。一体いつまでここに閉じ込めるつもりなのだろう。ここを出る前に何をされて、どんな状態で絶望の未来へ送り出されるのだろう。

 ……。そんなことを考えたって意味はない。何故なら、今からレオとスライは《自由》を取り戻すのだから。


 部下の一人が、食事のために手の拘束を緩めてくれた。

「どうもありがとう」とレオが丁寧にも礼を言った、その時である。剣を振り続けて些か無骨になった拳が、男の顎を下から思い切り突き上げた。


「うッ」


 予想だにしなかった敵意に、男は拘束具の鍵を放り出しながら背中からひっくり返った。


「どうし――」


 いきなり倒れた仲間を心配して、配膳をしていた男が仲間の方へ振り返る。その隙に、スライが拘束具を填めたまま、男の首に腕を回して頸部を圧迫する。

 殺意すら滲む容赦のない締め上げに、呼吸はおろか悲鳴一つ上げられない。抵抗らしい抵抗もできないまま、男の顔は瞬く間に真っ赤になり、多くの時間を必要とする前に意識を手放した。


「静かに済ませられたな」


 言いながらレオは床に落ちた鍵の束を拾い上げると、まずは自分の拘束を解き、それからスライの手足を自由にした。

 今まで自分たちが付けていた拘束具を、気を失った部下たちに嵌め込んでやると、ついでにその辺に落ちていた薄汚れていた布切れを拾い上げ、抵抗しないのを幸いとばかりに猿轡代わりに口の中に詰め込んでおく。


「うわ、ばっちい……」と、がたいの良い彼が苦笑交じりに呟く。


 レオは鍵の束を手にして立ち上がると(天井が低いのでやや腰をかがめてはいるが)、他の四人の自由を奪う拘束具を解いた。


「ここを脱することを無理強いはしない。けれど、私たちは行く。逃げるのも、ここに残るも、お前たちの自由だ」


 レオは無感情に、しかし柔らかい絹のような声で言った。決して優しさからの助言ではない。逃げる意思のない者を連れ立ったとしても足手まといになるだけだ。余計な荷物を抱えて脱走を図るほど、今のレオに余裕などなかった。


 スライは外の様子を見るために、一足早く地上へ伸びる階段を登った。レオは「じゃあな」とその後を追う。傷の痛みは相変わらずだが、今度こそ訪れたチャンスを無駄にする気はなかった。鍵は部屋の外に捨てておく。目を覚ました部下たちがすぐに外へ出られないように。


 と、その時、背後から立ち上がる気配があった。「待って!」

 二人はそちらの方へ視線を向ける。俯き気味に立ち上がっていたのは、あの気弱な彼女だった。


「あなたたち、今からここから出てゆくのよね」


 レオとスライは顔を見合わせた。


「あたしも行くわ。いいかしら」

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