第7話 魔宝石

 スライは、細く押し上げた床扉の隙間から用心深く外の様子を盗み見た。

 まずはここを押し上げるのに苦労するかと思ったら、鍵がかかっていなかったようで、随分拍子抜けした。

 逃げることはないだろうと高をくくっているのか、些か不用心すぎやしないかと敵の警戒心の甘さを頭の片隅で一笑に付す。


 目の前には、カーテン越しに差し込む仄白い光に照らされた木製の箱が積み重なった一角の他に、使われていない衣装掛けやキャビネット、ガラス部分の割れたランプなどといったガラクタがたくさん置いてある。


 人の気配がないのを確認すると、スライは床扉を大きく開けて外に出た。


「なんだ、張り合いがないな」


 容易く脱出することに成功したレオたちは、廊下へ続く扉へ身を寄せ、外の様子に耳をそばだてた。スライが魔族の超能力とも言える鋭敏な聴覚で、この部屋周辺の様子を探ろうと意識を集中させたその時、彼の背後でレオが「あっ」と声を上げる。


「どうした」

 スライはわずかに肩を飛び上がらせた。


「私の剣がない」


 不安げな顔をしたレオは自分の腰の辺りを探りながら言う。あの美しく目を引く赤い石の輝きが失われたそこは、虚しい空白に彩られていた。


「立派な拵えだったからな。取り上げられたんだろう」


 スライが他人事のように言う。

 レオは額を覆いながら舌を打つと、「悪いが、ここを出るのは剣を取り返してからだ」


「はあ?」


 スライは苛立った様子で、「本気で言ってんのか。そんな時間あるわけないだろ。それにそのひでえ怪我で屋敷内をくまなく探し回るつもりか」


「あれはイオリの形見なんだ。他の荷物はどうでもいい。せめて、剣だけは……」


「それで見つかっちまったら本末転倒だろうが」


「私にはあの剣が必要なんだ。イオリが私にくれた一番の宝物だ。お前の母親を殺すのは、あの剣でなくてはならない。それにお前だって、自分をこんな目に合わせたミラージ・アブルィーフに意趣返しがしたいのではないか?」


「相手はただの人間だ。俺が手を下さずとも、あと五十年かそこらで勝手に死ぬさ」


 そうは言いながらも、自分の油断が原因で彼女に大怪我を負わすことになってしまったという思いが彼に我を通すことを苦辛させていた。


 同様に、彼女の言うことにも一理あるのだ。やられっぱなしでの敵前逃亡は、彼の矜持を穢す行為に等しい。一方で、相手の手数については何も明らかになっていない。並外れた身体能力だけで太刀打ちできる保証もないし、対魔族用の武器が敵の手中に後どれだけあるのかもわからない。


 どうやらあのミラージという男には、凶暴な魔族を売り捌くだけの手立てがあるらしいことは、手下の男どもの発言から容易に想像が出来た。


「頼む。あの剣だけは、私の手から離れてほしくないのだ。あれはイオリだ。私の傍に残ってくれた、唯一のイオリの魂なのだ。私はそれを置いてゆくことなどできない。私一人ででも、あの剣は必ず見つけだす」


 スライの沈思を打ち破るように、レオが懇願する。凛々しい眉を泣きそうに顰めている様は、鉄の仮面を思わせる彼女の顔に浮かんだ数少ない《感情》だった。彼女の中の復讐心が、レオにこのような狂気に染まった顔をさせる。己が理想とする舞台で、たった一人の呪わしい女を殺すことだけが今の彼女を生かしているのだろう。そう思わないではいられなかった。


「やめろ、わかったから」


 スライは怖気すら感じる彼女の熱意を前に、折れるしかなかった。怒りなのか悲しみなのかわからないが、レオの双眸を真っ赤に縁どった激情を見つめながら、その身の内に宿るもう一つの存在を認識した。


 ――この女の中には鬼が棲んでいる。気性の激しいその鬼こそが、レオノーラという少女に、強靭な復讐心を植え付けているのだ。

 スライは思考を振り払うように前髪をかき上げると、


「さっさと剣見つけて、こんなとこ出ていくぞ」と、ドアノブをぐっと握りしめた。


 ドアノブを軽く捻りながら押す。蝶番ちょうつがいの軋む音がやけに大きく耳を聾する。

 その甲高い音の向こう側で、魔族の研ぎ澄まされた聴覚は、数人の談笑の声を僅かに聞き取った。近くはない。空き家をいくつも挟んだその先の部屋で行われているようだ。


 安全確認を終えたスライは軽くレオに目配せし、扉の隙間からするりと抜け出す。双方共に怪我による弊害で本調子でないまま敵陣をうろつくのは捨て身の策であったが、果たしてこれが吉と出るか凶と出るか。――その結果は、廊下の曲がり角の先からぬっと現れたミラージ・アブルィーフの手によって、地下室からの脱出よりも遥かに呆気なく明らかとなった。


「はっ!?」


 そんな馬鹿な! スライの頭の中には一斉にそのような言葉ばかりが発生した。どうしてこいつがここに。

 ささやかな気配一つ感じさせなかった。まるで、たった今、幽体から実体のある肉体へと変化を遂げたかのように、一種異様な登場の仕方をしたのだ。

 魔族の有する超五感を凌駕するちからが働いたのか、スライの研ぎ澄まされた感覚をもってしても、ミラージの登場を察知することが出来なかった。


 混乱する脳によって制止を強いられた刹那、魔族の本能が意識下で身体を突き動かす。

 咄嗟に放った拳が空を切る音が響いた。だがその渾身の一撃は、ミラージの柔らかな掌にいとも容易く包み込まれる。


 スライは物凄い勢いで拳を引くと同時に足払いをかけるが、ミラージは後方に飛びのいてそれを躱す。


 美丈夫は目をすがめて正面から二人を睨みつけると、「やれやれ、仕方のない」と呟き、右目を覆う眼帯を徐にはぎ取った。頼りない灯りだけに照らされた薄暗い廊下に、彼の蒼い瞳が露になる――否、違う。そこにあるのは瞳ではない。晴れ渡った空の下でキラキラと煌めく大海原の色をした宝石だった。その瞳が、まるで雷鳴を伴った雷のように、ぴかっと強い光を放った。


「ギャアアアアアアアア!」


 その瞬間、スライは両手で頭を抱え、喉が千切れんばかりに絶叫した。ただ事ではなかった。死を彷彿とさせる激越な咆哮は、レオの耳を聾するほどに空気を激しく揺らした。


「な、ん……」レオは耳を塞いでスライを見上げた。


「やめろ、やめろ、俺を……見るな!」


 スライは全身をぶるぶると痙攣させながら床に倒れ込むと、のたうち回るようにして苦しみだした。


 レオは、いきなりのことに何が何だか分からなくなった。なぜ彼がこんなにも苦しんでいるのか、その理由がわからず混乱する。


「スライ、どうしたんだ、スライ!」


 レオは、赤い絨毯に額を擦り付けるようにしているスライの肩を大きく揺さぶった。彼女の声が聞こえないのか、スライは何かにとり憑かれたように、燃えるように逆立った髪をめちゃくちゃにかきむしる。


 ミラージは、悠々とした足取りで近付くと、凍てつくような冷たい視線で二人を見下ろした。明らかになった右目の中は、未だあの青い光に満ちている。美しくありながら、どこか凄惨な雰囲気を含んだその光は、レオの白い頬をぞっとするような青に染め上げる。


「効くだろ、この魔宝石のちから」


 喉の奥で笑うミラージを、レオは虚勢を張るように睨み返す。


「こいつに何をした」


 ミラージは答えない。薄ら寒い笑みが、相貌を華やかに飾り立てるばかりだ。


「私たちをここから出せ。お前の言いなりにはならないぞ。それと私の剣を――」


 最後まで言わせぬ。ミラージは不意に左脚を持ち上げたかと思うと、固い靴底でレオの後頭部を踏み床に押し付けると、深く腰を曲げてスライの髪を掴んだ。抵抗する彼を無理矢理上に向かせると、苦痛に見開かれた目の中央で、赤い瞳が上下左右に小刻みに揺れている。


「うわああああ! やめろ、やめやがれ!」


 スライはミラージの手に爪を立て、必死に髪から引き剥がそうとする。


「ハハハハッ、どうした。お前、魔族なんだろ? その情けない姿は何だ」


 ミラージは周囲の壁に青い光を乱反射させながら高らかに笑う。

 この光景を見て、スライとミラージ、どちらが魔の世界に属する者か一目で理解など到底出来ぬ。


 この美しくも無慈悲な男、ミラージ・アブルィーフ。彼の右目に宿った青い石――魔宝石――は、魔族を無力化するちからのある魔法の石だ。


 かつて、人間の世に生まれた魔女が、人間に仇なす強大な魔物を退治するために、人生の大半を費やして作り上げた、魔族を退けるちからを有した宝石である。

 この世に二つとない宝で、製造方法や材料などは一切不明。多くの謎に包まれた存在となった。

 世界に一つしか存在しない魔宝石はその後、持ち主の魔女が死に、以降、行方を晦ませていたのだが、まさかミラージ・アブルィーフという男の右目の中にて息を潜めていたと誰が予想できたであろうか。


「どうして、お前が、それを……!」


 スライが荒い呼吸の合間に言う。無情な男は蕩ける蜂蜜のような甘い微笑を浮かべ、「そんなことはどうでもいい。お前たちは命知らずにもほどがあるぞ。この俺から逃げられると思ったのか」


 追い詰めるような言葉選びとは裏腹に、口調はことに優しいのが不気味だった。

 まるで父親が、悪さをした子どもを諭すような口振りとでもいうのだろうか。けれどそこには愛情もなければ、慈愛などという父親の無限の情は薄絹一枚ほどもありはしない。優しさが冷徹な温度を帯びるだけである。


 その時、廊下の奥から三人の部下が駆け込んできた。


「ミラージ様! 今の叫び声は?」


 ミラージは振り返ると怒気を含んだ声で、「おい、見張りはどうした。二人も逃げ出しているぞ」と責めるように言った。

 部下たちは揃って直角に腰を折ると、「大変申し訳ございません! 少し目を離した隙に逃げられてしまったようです……!」と正直に己の非を認める。目の前の主人が怖いのだろう。彼の人となりは、売り飛ばされる奴隷たちだけでなく、大勢の部下をも支配している。


「フン。まあ、いい。この俺が直々に灸を据えてやったからな。さっさと連れていけ。こいつらには特別製の錠をかけろ。片方は魔族だ。何故か一切魔法を使おうとはしないが、力だけは人間を遥かに凌駕する」


 ミラージが眼帯を掛けなおすと、周囲を舐めるように煌めいていた光が彼の目の中に納まった。


 スライは息も絶え絶えに床に伏していたが、二人の部下に引っ立てられ、抵抗する余地も与えられずに来た道を戻る。ミラージは上等なジャケットの裾を翻して、地下室へと向かう彼らの先頭を歩き出した。


「お前も立ちな」と、もう一人の部下がレオの腕を引いて立たせる。仕方なくレオはそれに従った。


「全く、馬鹿な真似はやめろよ。本当に殺されちまうぞ。おれは長らくミラージ様の下で働いているが、あまり逆らうようだと、女子供容赦なくあの人は手にかける。逃げ出されてここの情報を漏らされるくらいなら、あの人は躊躇いなく殺すんだぞ。おれはそういう商品たちを数多く見てきた」


 多少は話ができる男のようだ。レオは傷に響かぬよう、声を潜め、


「なら、他所へ売られた人たちは、何故この館のことを外に漏らさないのだ。大陸から離れた島の館で監禁され、遠くの地に売られた者が、ミラージ・アブルィーフの非人道的な商いのことを、何故黙っている」


「……うーん」


 男は何か知っているようだったが、発言すべきか迷っているようだった。


「何だ。何か理由があるのか。売られた奴隷たちが、ここのことを外へ漏らせぬ理由が」


 レオの潜めた声に鋭さが宿る。身体の至る所に怪我を負い、敵陣の中で囚われの身でありながら、こうも強気な姿勢でいられることを、この部下は感心しないではいられなかった。


「いや……。おしゃべりが過ぎたようだな」


 それ以降、男は何を聞いても答えてはくれなくなった。


 奴隷商人ミラージ。恐ろしい男だ。この男の魔手から何としてでも逃れなくては。


 例の地下室に連れ戻されたレオたちは、ガラクタ部屋の中で先ほどよりも遥かに頑丈そうな拘束具で四肢の自由を奪われると、階段を転げ落ちるようにして地下室へ押し込まれた。


「だ、大丈夫?」と、船を降りるときにレオを庇いたてた彼女が心配そうに首を伸ばして訊ねる。が、その労わるような表情が、地下の階段を下りてくる靴底の音によって恐怖へと塗り替えられた。


「全く、今回の商品たちは随分と好き勝手してくれるな」


 ミラージの氷めいた声に、二人を除いた全員が身を竦ませるのがわかった。黴臭い地下室内に見目麗しい悪魔が降り立つと、張り詰めた空気が肌をちくちくと刺すようだった。


 非道な商人は、冷たい石の床に転がった四つの拘束具を手に取る。ここを出る際にスライが破壊したものだ。


「へえ、凄い。本当に壊れてら。鉄製だぞ。とんだ怪力だ」


 彼は楽しそうに呟いたかと思うと、大人しくしていた四人に視線を向け、「君たちは、この二人をどうして止めなかった?」と穏やかな口調とは裏腹に、詰責きっせきするような左目で四人を見下ろした。


 人殺しかと思うような容赦のない視線に、彼らは怯えて声も出ないようだった。己の問いに誰一人として口を割らぬことに、苛ついた様子で小さく舌を打つと、少女は震える声で「ごめんなさい……ごめんなさい」とただひたすら謝ることしかできない。


 嫌な男だ、とレオは内心で毒を吐いた。この男に罰せられるべきは彼らではなく、自分たち二人だけだというのに、なんの罪もない彼らを責める必要がどこにあるという。


 ミラージは、謝罪の言葉を繰り返す彼女の態度に興が削がれたらしく、舌打ちをしながら彼女を軽く蹴りつけて、部下と共に地下室から引き揚げていった。


 閉められた天井の向こうから、「誰もここから離れるな。また逃げ出すともわからんからな」と命ずるミラージの声が微かに聞こえた。


 しくじった。本格的に監視が厳しくなってしまった。


 床に転がったままだったレオは、埃だらけの床を這うようにして上半身を起こす。

「大丈夫か?」とレオは彼女に訊ねた。あなたのせいでしょ、と責められるのを覚悟で言ったのだが、彼女は「ええ、ありがとう」と礼の言葉まで付けてお返しする。

 他の三人は声こそ出さなかったが、一斉に吐き出した深いため息の中に、「もう勘弁してくれ」という批難の響きが込められていた。


「いや、参ったぜ。奴にあんな切り札があったとはな」


 急にケロッとしたスライが、壁に背中を預けながら言う。レオはそんな彼の様子を、呆気にとられて見つめた。


「お前、もう大丈夫なのか?」


「ああ。今はな。畜生、まだ勘が鈍ってやがる。あの弾丸のせいだ。奴の気配を察知できなかった」


「……ただ事じゃなかったろ? さっきのあれはなんだ」


「外で何があったの?」と、意外にも気弱な彼女が、遠慮がちに二人の会話に入る。


「俺たちを捕らえた相手はただの人売りじゃなさそうだ。でなければ、あんなものを持っているはずがない」


 スライの目は、想像上のミラージを睨みつけるように鋭く吊り上がった。「あいつの眼帯の奥。魔宝石があった」


 レオは首を傾げて問い返した。


「魔宝石?」


「魔族を退ける力のある石だ。世界に一つしか存在しないものを、今はあいつの手の中――否、目の中に隠していた。あの石がある限り、悪いが俺はあまり役には立たないよ」


 母親に魔力を奪われた上に、目の前の敵の眼中には魔族を退ける石。彼にとってはつくづく恵みのない旅路だ。


「退けるという程度ではなかっただろう」と、レオ。目の前でスライが苦しむさまを思い出して、柳眉りゅうびを歪めた。


「魔族はあの石が放つ蒼い光に弱いのだ。頭の真ん中に熱した鉄の棒を突っ込まれた感じ。とんでもない苦痛だよ。初めて見たが、まさかあそこまでとは」


 スライはあの光を思い出して、ぞくりと身震いした。

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