第5話 隻眼の美丈夫
岸から離れ、遠くの陸地を目指して舵を取る一隻の船。
風は十分に吹いている。帆は海風を受けて、猛スピードで海の上を走った。
先ほどまで晴れ渡っていたはずの空が鈍色に沈んでいる。晴天の下にあったはずの青い海も今は重苦しい灰色に染まり、遠くに轟く雷鳴を受けて荒波を立てている。
甲板の上には五人の男たちが、水平線の彼方に細めた視線を投げかけていた。レオとスライを襲撃した男たちだ。彼らの視界の先には、緑に囲まれた島がぽつんと小さく浮いている。潮騒を割る船尾の後ろにある大陸の地面は、既に遠くの景色だ。
上下に激しく揺れる船上で賊たちはぽつぽつと会話しながら、時折船底に設えられた地下室の様子を覗き見ている。
薄暗い室内には、六人の男女が両手を乱暴に拘束された姿が確認できた。皆、波に揺られるがまま、暴れる様子もなく大人しくしている。
それにしても酷い揺れだ。男は細く開けた地下を見下ろしながら、微かに船酔いの症状に見舞われた。あまり船は得意ではない。
やがて、島の船着き場が見えてくる。そのすぐ前方には大きな屋敷が堂々たる威厳を放ちながら、五人の賊たちと、六人の男女を乗せた船を出迎えた。
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何かにぶつかったような衝撃で、世界が大きく揺れたのはその時だった。浅い意識下を
寝ぼけ眼で辺りを見渡して、今自分がとても薄暗く、狭苦しい部屋に押し込まれているらしいことを理解する。しかし、どうしてこんなところにいるのか、この奇妙な揺れは何か、どうして己の手が鉄の拘束具で拘束されているのか――目を覚ます以前の記憶があやふやだ。頭の中に霧がかかっているみたいにすっきりしない。
スライは、傍に寄り添う体温に目を向ける。肩に寄り掛かる形で目を閉じたレオの姿がある。弾丸を受けたこめかみから血を流し、全身から噎せ返るほどの血の匂いがする。眉間に皺を寄せて浅い息を繰り返すさまは、高熱に魘される幼子のようで、見ていて心地の良いものではなかった。
この時になって、彼はようやく己らの身に起こった事件のあらましを思い出した。どうやら自分たちは捕まってしまったらしい。そして身動きも許されぬまま、どこか遠くの地に連れて行かれている最中なのだ。この不愉快な揺れと潮の香りは、船上であることの証明。
同じ部屋には自分たち以外にも、両手を拘束された若い男女が顔を伏せてじっとしている。みんな眠っているのか、それとも恐怖で動けないのか、一切の
「う……」
レオが目を覚ました。全身を引き裂かれるような痛みに堪えるように、食いしばった歯の間から細い呼吸音が忙しなく聞こえる。
「大丈夫か。生きてるな?」
スライが小さな声で言うと、もう一度船が激しく揺れた。これには、部屋の中にいた全員がはっと顔を上げずにはいられなかった。
船の甲板へと続くドアが開く。外套を脱ぎ棄てた、がたいのいい男たちが顔を覗かせる。
「着いたぞ。立て」
まったくもって主語の足らない言葉だ、とスライはぼやぼやする頭で思った。
「俺たちを何処へ連れて行く?」
スライが激しい憎しみに煮えたぎったような目で賊どもを睨みつけた。身体の自由が制限されていようと、決して相手に屈しないところはさすがは魔族の王子といったところか。
「余計なことを喋るな。次喋ったらもう一発ぶち込むぞ。さ、立て。ここを出ろ」
男はそう言って、あの弾丸の入ったピストルをちらつかせる。
スライは舌打ちをすると、「立てるか?」とレオに小声で訊ねる。レオは霞んだ視界の中に連れの顔を見出すと、己の置かれた状況を理解した様子で、「ああ……」と力なく頷く。
明らかに大怪我をしているのはレオたちだけで、彼女らの他にいた四人の男女は、これといって危害を加えられた様子はない。難なく立ち上がって、二人より一足早く甲板へと出てゆくところだ。
狭く切り取られた扉の向こうには暗い空が広がっていた。今にも泣きだしそうな曇天は、まるでこの部屋に立ち込めた不安そのものだ。
レオは、気を失う直前まで刺さっていた矢が抜かれ、簡易的ではあったが傷口を覆うように包帯を巻かれていることに気が付いた。が、白い布地には痛々しく赤が滲んでいる。円形の朱色は今この瞬間にもじわじわと直径を広げているのが見てわかった。
両手を前でしっかりと拘束されていることによって、立ち上がるのに少しふらついたが、なんとか堪えて歩を進める。たったそれだけの行為に酷く体力を消耗した気がする。
それでも、やっとのことで船室内を三歩ほど歩いたが、すぐに体力の限界が訪れて膝を付く。すぐ隣を歩いていたスライが慌てて支えようとするも、両手が使えないのでそれも叶わず、「おい、しっかりしろ」と声をかけ続ける他なかった。
ピストルを持った男は苛立たし気に舌を打つと、「何してんだ、早くしろ」と急き立てる。
「てめえ、客人はもうちっと丁重に扱えや」
「黙れ」
男はため息交じりに言って近寄ると、手を貸してくれるのかと思いきや、手にしていたピストルでレオの肩に空いた傷口を思いっきり殴りつけた。
「うあああああ!」
傷口が爆発したかのような痛みと熱さに、喉の奥から絶叫が迸る。目の前にちらちらと星がチラつき、遠退きかけた意識を必死に繋ぎ止めるように下唇を噛みしめた。
なんて奴だ。血も涙もない。いくら何でも人間のやることとは思えず、魔族は目の前の男に噛みつかん勢いで牙を剥き出しにした。
「や、止めてください!」
その時、恐怖に震えた声が飛んで来るや、レオの前に少女が滑り込んでくる。今しがた外へ出たばかりの一人だ。年の頃は二十歳前後といったところで、大人びた顔だちのわりに小柄な体躯と、赤らんだ頬が年齢よりも幼い印象を与える。勇気を振り絞って駆け付けてきてくれたのだろう。砂埃が付いたアイボリー色のジャケットの中で、小さな肩が小刻みに震えている。
「あ、あの、私が彼女に肩を貸すので、これを外してください。こんなところで、今更、逃げやしませんわ。ね、そうしてください」
「だめだ。こいつは俺らで運ぶ。お前は早く行け」
少女は強く言われ、大人しくそれに従うしかなかった。
人権など与えるつもりはないらしい。
一気に頭に血が昇った。スライは自由の利く足で、レオに手を貸そうとしゃがみ込んだ男を思いきり蹴飛ばしたが、すぐに仲間がやってきて取り押さえられる。
「早くこいつら連れて行こうぜ」
一人の男が、痛みに悶絶するレオを無理矢理立たせて船を出る。スライも背中を蹴られながら島に降り立つと、目の前に聳えた大きな屋敷が、スライたちを飲み込もうとするかのように佇んでいた。
茶色のレンガ造り、金持ちが好んで居住するような高級感のある作りになっていて、築年数の割にはしっかり手入れが行き届いている。壁を這う蔦や、広々とした庭には花壇があるにもかかわらず、一輪の花も咲いていないかった。ガーデニングはここの家主の趣味ではないらしい。
曇天を、二羽の鴉がけたたましく鳴きながら横切ってゆく。
他に建物はなかった。茂る緑と海、そして物々しい雰囲気の屋敷一軒だけが威圧感を放つ、まるで娯楽など何一つない監獄のような島。
「こっちだ。ついて来い」
先頭を歩いた男が屋敷の玄関に向かって歩いて行く。
殿を務めた男が、レオを半ば引きずるようにして歩く。
大きな扉を潜って屋敷の中に入ると、中は外観に負けず劣らずの豪奢な作りになっていた。煌びやかさと言うよりは、重厚感とでも言うのだろうか。物は少ないが、設えたものは一目で高価なものだとわかる。
毛足の長い赤の絨毯は沈み込むように柔らかく、正面にある大きな扉の装飾は見事なものだった。
左手には二階へ続く螺旋階段がある。吹き抜けになった天井で、シーリングファンが回転しているのが見えた。
スライの視界に新たな人影が飛び込んできたのはその時だった。螺旋階段から優雅な足取りで降りてきた一人の男。ほぼ同時に賊たちがそれに気が付いて、揃って姿勢を正す。
「帰ったか」
二階から降りてきた男が言う。
「ミラージ様。ただいま戻りました。こいつらが、今回の成果です」
先頭の男が言う。この言葉を合図に、賊たちは半歩後ろに下がった。
ミラージと呼ばれた男は「ほお」と甘い声で呟くと、傍に寄ってきてスライたちに視線を向けた。
歩くたびに揺れる上等な長衣からは、うっとりするような馨しいムスクの匂いがした。
ミラージは機嫌よさそうに口角を上げて「うんうん」と頷いていたが、その視線がレオとスライに向くや否や、形のいい細眉が不快そうに跳ね上がった。
「その二人はどうした。ひどい有様だな」
言いながらレオの顎をそっと掴む。背の高いレオは、微かにミラージを見下ろすような形になった。冷たい指先を払う気力もなく、されるがままだったレオを見かねて、
「おい」
と、スライが怒りを隠そうともしない声音で言った。ミラージはちら、と氷めいた視線を彼に向ける。
「気安く触ってんじゃねえ」
「……お前の女か?」
スライは顎を反らすようにしてミラージを睨みつけると、
「馬鹿が。噛みつかれんぞ」
その時、ミラージは手に鋭い痛みを感じた。
「ッ……!」
レオが、スライの言葉通りミラージの手に噛みついていたのだ。尖り気味の犬歯が白く細い指を、血が滲むほど強く噛む。まるで人間を敵視した野犬のような眼差しで目の前の美丈夫を睨みつけたレオは、歯と歯の間の肉を骨ごと断ち切ることに何の
レオを支えた男が焦って二人を引き剥がさなかったら、ミラージの人差し指と中指は今頃赤い絨毯の上に落ちていたことだろう。
ミラージは流血した指を自分の口元にもっていって、滴る血をぺろりと舐めた。
彼女の気性の荒さを目の当たりにして、スライたちの大怪我の理由を悟ったらしい美丈夫は、「まあ、顔はいいからな。商品としてしっかり躾けてやれば、良い値が付くだろう。おい、もう一度手当てしてやれ。今度はちゃんと薬を塗ってやんな」
ミラージはさっと踵を返すと、再び二階へ上がってゆく。
その後、男共は複雑に伸びる廊下を右に曲がり左に曲がりを幾度か繰り返したのち、ガラクタがたくさん詰め込まれた物置のような部屋へ彼女らを連れ込んだ。
人の出入りが希薄であることは、床に降り積もった埃を見れば一目瞭然だ。その中で唯一、木の床が鮮明な色合いを保っていた一角があった。地下室へと続く床扉の部分だ。
先にレオとスライ以外の者が押し込められている間、二人はお世辞にも丁寧とは言い難い手つきで怪我の手当てをされた。それもものの数分で終わると、二人も地下へ潜り込む。その先ではさらに厳重に、足の拘束までされた。
一仕事終えた賊どもは、がやがやと地上へ去ってゆく。「いいか、おとなしくしてろよ」という別れの言葉の、なんと無粋なことか。
スライは口の中で毒に塗れた呪いの言葉を呟きながら、閉じられる床扉の奥をいつまでも睨みつけていた。
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