第4話 襲撃 一

 世界には朝の気配が訪れた。

 レオとスライは確実に奴らの手から逃れるために、町を二つほど超えた。


 夜空の下を夜通し歩いた。やがて左手側には川が流れ始め、人の住む気配が薄れた末に、周囲には若い木々や、長らく放置された古びた小屋がぽつんと佇んでいる。


 ひとけのない街道。川が流れているからそろそろ人間の生活区域が近いのだろうが、視界の先には朝靄に包まれた広大な地平線が見えるばかりである。


 薄闇の残る早朝、眠気の限界がきたところで、二人は穏やかなせせらぎを奏でる川辺で軽く仮眠を摂った。屋根も布団もないところではのんびり惰眠を貪ることも許されなかったが、夜通し歩き続けたことによる疲労をいくらか解消することはできた。


 時折意識を浮揚させながらの数時間に及ぶ浅い睡眠から目覚めると、先に起床していたスライが川の水で顔を洗っているところだった。冷たい流水を顔面に叩きつける音がせせらぎに混じり、レオに起床を促す。


 よく晴れた朝だった。昇ったばかりの朝陽が眠気の残る瞼から眼球に差し込み、徐々に脳が覚醒する。


 僅かな怠さを全身にへばりつかせながら立ち上がって川縁へ行くと、前髪から水を滴らせたスライが振り返った。


「起きたか」


「ああ。……ほら、タオル」


 レオはカバンの中から洗い立てのタオルを寄越す。


 スライは乱暴に自分の顔を拭うと、「くああ……」と寝起きの猫のような声を上げながら伸びをした。

 その隣でレオも顔を洗う。川の水は寝ぼけた頭を目覚めさせるのに十分すぎるくらい冷たかった。流れる水面を揺蕩たゆたう陽光の照り返しが眩しい。なんとも爽やかな朝だ。昨晩の出来事を帳消しにするとまではいかないが、いくらか気分も晴れやかになる。


 二人は、平らな石に腰を下ろして軽食を済ますと、この先にある港町を目指して歩き始めた。一日に三本出ている船に乗って、海路で国境を超える。二晩ほどを船の中で明かし、着いた先からはひたすらに陸路を行く。魔界の入り口まで歩いて数週間――途中で馬でも調達できれば、遥かに楽な旅路となるだろうが、金銭面での不安が大きいところだ。その辺は後々考えよう。


 道中、二人の間に会話らしい会話は存在しなかった。静寂を破る唯一の音は傍を流れる川のせせらぎと、朝の訪れを祝福するかのように美しく囀る小鳥の声。

 だだっ広い平野が続く一本道には、未だに人っ子一人いない。昼間だというのに、不思議なほど静かだ。


 別に、気まずいとは思わなかった。必要のない会話を無理にする必要もないし、さしてこの沈黙が不快でもない。……それに、今のレオに純粋な心で世間話を楽しむ精神的余裕は存在しなかった。彼女の胸の中にある復讐心は頑なで、宿主であるレオノーラ・イグレシアスに、心の余裕など一切も与えてくれないのだ。それはきっと、スライも理解してくれているのだろう。だからこの場に不要な会話は生まれないし、互いにそれを不快だと思っていない。


 こうして、なんとも不可思議な沈黙の中を歩いていたレオとスライだったが、その空気が突如として一変する事態が訪れた。


「止まれ」


 スライがぴたりと立ち止まりながら言った。静かであったが、有無を言わさぬ響きがあった。


「どうした?」と、レオ。怪訝そうに。


 スライは答えず、鋭い視線を周囲に走らせ、息をひそめている。

 つられてレオも警戒気味に辺りを気にするが、この平和な朝の光景に水を差す不届き者がいるとは思えなかった。


「なあ、スライ――」


 その時だった。スライがいきなりレオの身体を真横に突き飛ばした。刹那、今までレオの立っていた地面に、鋭い一矢が突き刺さる。もし彼がこうして突き飛ばしてくれなかったら、あの矢に身を貫かれていたことだろう。


 狙われている!


 事態を把握したレオは、身に迫った危機に咄嗟に身構える。

 向こうには明らかに敵意があるらしい。少なくとも、こちらに危害を加えることに引け目を感じてはいないようだ。


「昨日の奴らか?」

 とレオ。矢が飛んできた方向――川の対岸にある森の中に目を走らせている。


「いや、まさか。そんなわけ……」言葉を切ったスライは、視線を他所へ向けたまま何かに気付いたようで、足元に転がった掌大の石を拾い上げて森に向かって勢いよく投げた。


 石は、がさっと音を立てて木の葉の中に吸い込まれていったが、同時に、「あてッ」とつぶてを食らったらしい声が聞こえ、枝の中から人が落ちてくる。外套のフードを目深にかぶった、がたいの良い男だ。手には弓を握り、背中には矢筒を背負っている。


 レオは剣を抜いて男の元へ走った。服が濡れるのも構わず、ざばざばと川を渡って、奴が体勢をを立て直す前にその鼻っ柱目がけて切っ先を突き付ける。男は眼前に迫った鋭利な銀色に、びくりと肩を飛び上がらせた。


「随分と無礼な挨拶だな。何者だ。私たちに何の用がある」


 逆光で顔を暗くしながらレオが凄むと、弓矢の男はじり、と腰を引きずるようにして後退る。


「言え。私は短気だ。長くは待たない。で私を射貫いてどうするつもりだった」


「おい、気を付けろ。他にも仲間がいるぞ」


 スライの声に反応して振り返ると、周囲には同じような格好をした大男たちが二人を取り囲んでいた。数は全部で五人。みんな手に手に銃や弓矢といった飛び道具を持っている。

 朝の爽やかな空気は、一瞬にして物々しいものへと塗り替えられた。


「剣を捨てろ。怪我をしたくなくば、言う通りにしろ」


 土手の上で、一番年嵩の男が叫んだ。一方的な物言いに、レオの胸に苛立ちが募る。


「人に向かって矢を放つような奴の言いなりになんてなれるわけないだろ」


 レオは気丈に言い返すと、「悪いが、お前らを相手にしている暇はないんだ。そっちこそ、怪我をしたくなければ今すぐ去れ」と続けた。


 男たちはいっせいに武器を構えた。目の前の男も弓を捨て、懐から可愛げの欠片もない大きなナイフを取り出して構える。彼女の言葉に大人しく従うつもりはないらしい。それもそうだろう。自分たちは五人で、強力な武器も持っている。一方で、相手は男一人と、身形だけ男のそれに近い若い女。そんな状況で大人しく引き下がるのはこの上ない愚か者の選択だ。――果たして、彼らの選択は正しかったのか?


 先に動き出したのはレオだった。スピード重視の最低限の動きで剣尖を翻し、男の手を斬りつけながらナイフを弾き飛ばす。朝の光射す川辺に煌めいた銀の残像は横凪に空を切り、続けざまにブーツの爪先が男の顎を思いきり蹴り上げる。

 その隙を狙って足元に転がった弓を拾い上げると、両端を持って思いきり膝でへし折った。その瞬間、男どもは一寸の躊躇いなど持たずに二人への集中砲火を開始した。鼓膜を打つ発砲音が地上に、空に響き渡る。


 レオは即踵を返し、周囲から向けられる狙いの外へと駆けだす。鍛え抜かれた脚力を駆使して再び川を渡ると、素早い動きで男どもの目を翻弄し、まずは一人目の脹脛ふくらはぎを軽く斬りつけた。


 スライはその場から一歩も動かず、飛んできた弾丸を身をくねらせて避け、一直線に向かい来る矢を手で掴んで、花でもそうするかのように易々と手折る。


 男たちは、予想だにしていなかった彼女らの高いアジリティに瞠目しながらも、銃の撃鉄を上げ、新たな矢を弦につがえる。


 レオはいくつもの銃口、矢じりが己を向こうとも、一縷いちるの恐怖も抱かなかった。

 手にした剣と同じ、切れ味の鋭い刃を思わせる視線で男どもを一睨みし、一気に距離を詰めて、飛び道具の優勢面をことごとく潰してゆく。


 彼女の剣尖は男たちの眼前で銀色の尾を引き、武器を持つ手から血を迸らせた。まるで姿かたちの見えぬ風のような動きに、彼らはたちまち劣勢を強いられる。


 武器を失くした男たちを待ち構えているのは、腕力に物言わせて、文字通り男たちを地に沈めるスライの体術である。

 瞬きの合間にはもう懐に入られている。服の袖から覗く鍛え抜かれた腕が胸ぐらを掴み上げるなり、繰り出される強烈な拳。容赦のない一撃が炸裂するのと時を同じくして迸る歓喜の哄笑。長い脚を振り回せばその分遠心力が働き、想像よりも大きな衝撃となって男たちを襲う。

 予想が出来ない手数の多さに、男たちは成す術もない。「人間離れ」という言葉では事足りないほどの強さに、彼らは辟易へきえきした。


 とんでもない相手に目を付けてしまったという後悔の念が押し寄せたことだろう。その一方で、彼らにはまだ隠していたものがあった。レオもスライも、に気付いていない。地に伏した一人がおもてを上げ、外套の中から小さな銀色のピストルを覗かせたのはその時だった。


 レオに切り付けられた手首をもう片方の手で支え、ブレる筒口をぴたりと固定する。そして、一気に引き金を絞った。たぁん! と大気を揺るがす発砲音に、その場にいた誰もが動きを止めた。


 レオの視線が音の向かった方へ動く。


「ッ……!」


 スライが胸元を押さえて膝を折った姿が、そこにはあった。

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