20 仲直り

 アタシが入り江に行くと、リューがちょこんと頭を出していた。後ろ向きだったけれど、明るい茶色の髪がとても目立っていた。怖くて、入り江に入ることが長い時間出来なかった。


 入り口でずっとリューを見ているわけにもいかないので、勇気を出して彼女を呼ぶことにした。


「リュー!」

 アタシは彼女を呼んだ。力みすぎて、大きな声で叫んでしまっていた。


 リューはびくっとして、振り向いた。彼女はカモメと話していたようで、彼女の振り向いた時にできた小波に揺られていた。カモメはアタシの大声には驚いていないようで、毛繕いならぬ羽繕いをしていた。


「あ…。ライちゃん。」


 すうっと彼女は優雅に泳いで、浜の近くに来てくれたが、浜に上がってはくれなかった。


 しかし、アタシは彼女が来てくれて嬉しくて。


 迅る心を抑えて、アタシはキャンパスなどを丁寧に置いた。


「リュー!よかった、来てくれて!ごめん、アタシ…。」


 しっかり謝らなきゃいけないのに、なんだか怖くて、言い訳をしているような気がして、自分に腹が立った。


「ライちゃん…。」


 おずおずとリューはアタシを見上げた。


「ライちゃん、私こそ。私、びっくりしちゃって…。」


「ううん、いいんだ。アタシが悪かった。ごめん、突き飛ばしちゃって…。」


 にっこり微笑んでリューはアタシに言った。


「ライちゃん、ありがとう。」


 彼女は水飛沫を全く立てずに岩場まで行った。その姿はまるで水と一体化してしまったようで、アタシもあんな風に泳げたら、もっとリューと遊べるのに。


 何をするのだろうと見ていると、顔ほど大きな貝殻を退けて、アタシのあげた油彩セットを出した。リューに頭の上にそれを持ちあげて、濡らさぬようにゆっくりと泳いで来た。


「ライちゃん、また描こ!」

 にこっと輝く笑顔をアタシに向けて、リューは言った。彼女は嬉しそうにぱたぱたと尾びれを水中で動かした。


「うん。」

 アタシは彼女のキャンパスを伏せて、リューが描こうとしている場所に運んだ。リューはほっぺたをほのかに赤くしてアタシを見ていた。


 アタシは画架イーゼルに立てかけたキャンパスのところにまで戻り、絵に取り掛かることにした。


 ………


「なあ、リュー。」


 アタシはリューを呼んだ。こっちこっち、とリューに手招きをする。


「なあに?」


 彼女は振り返って、アタシを見た。身振りがわかったのか、彼女はゆっくりアタシの方に近づいてきた。リューのそばで絵を見守っていたカモメも、呼んでいないのにリューの後をくっついて来た。遠目に見る彼女のキャンパスには青色が多い気がしたが、何が描かれているのか、あまり良く見えなかった。


「なあ、二人とも絵が完成したら見せっこしないか?」


 其れは昔、アタシが出来みれなかった夢の続きの提案だった。


 やっと出来た友達と語り合う。


 他の人達は自分の好きなことで語り合っていたのに、アタシだけ出来なかった事。


 ずっとこの時を待っていた。


「うん。いいけど、待ち切れないかもしれないな。」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて、リューは言った。とても嬉しそうに、にこにこ笑う彼女はとても可憐で、幾らか胸がドキドキした。


 きっとこの胸のドキドキは、夢の続きへの期待なのか―。それとも。


「ライちゃんの絵、楽しみに頑張るね。」


 パシャッと優しく小さな水飛沫をあげて、リューは戻っていった。


 カモメはリューの後を追わずに、アタシにクラッカーをねだろうと企んでいるのか、アタシの足を突っついた。


 ………


 日も少しばかり傾き始め、西日が入り江に入ってきた。もうすぐ三時ぐらいだろう。漁港に船が着く時間を狙っていたのか、カモメはクラッカーをたんまりと食べ、港に向かって飛んでいってしまった。


 リューは岩陰にキャンパスを立てかけ、アタシの方に来た。


 彼女は浜に上がり、頬杖をついて、まじまじとアタシを見ている。


 海の方に向かっているから、アタシの絵はリューからは見えない。リューは相当待ち切れないみたいだが、まだまだ完成は先。


「どうした?」


 アタシはリューに訊いた。もう終わったのだろうか。


「ん…。ライちゃん、なんか進んで無さそうだったから。」


 進んでないというのは本当で、手が思うように頭のイメージを載せてくれない。


 もう一度、あの蒼い世界を見たいと思った。


 蒼い世界の、あの素晴らしい景色や優しい住人達、不思議なもの達は心にずっとある。あの感覚は今でもくっきりと思い出せる。


 だけれど、人間とは忘れてしまうものなのか。


 やっぱり少しばかりか褪せてしまったようで、巧く描けない。


「まあね。海の中、忘れてないんだけどさ。ちょっと行き詰まってて。」


 リューが蒼い世界で笑ったことも、少し哀しそうな瞳をしたことも、住人も、村も、海草と珊瑚の森も全部忘れていないはずなのに、記憶の中の蒼い世界は色褪せてしまった。


「じゃあ、また見に行こう。」


 キラキラ輝く瞳で彼女は言った。


「ありがとう、リュー。だけどさ、今日はいいよ。また明日でいい。」


 アタシは言った。


 コンテストはまだまだ先だし、何より服が濡れてしまうと、滴った水滴でキャンパスが濡れるためにすぐ取り掛かることが出来なくなってしまう。


「なんで?」


 リューが訊いた。蒼い瞳に吸い込まれそうで、打ち寄せる波に目を落として言った。


「まあ、服が濡れちゃうと、キャンパスにすぐ取り掛かれないからな。明日しっかり準備してから行きたいんだ。」


「ふうん。」


 少しガッカリした声で、リューは言った。しかし、もうこんな時間である。絵を乾かさないと持って帰れないし、アトリエに帰って支度をする時間も、ない訳じゃないが、人間のアタシは少ししか行くことが出来ない、蒼い世界をしっかり目に焼き付けておきたかった。


「なあ、リュー。どうしたらアンタみたいに泳げる?」


 人間と人魚じゃあ体の作りが違うからだと思うが、せっかく連れていってもらえるのに、彼女の手を煩わせては迷惑だと思った。


 何より、リューと一緒に泳ぎたいのもあった。


 リューはキョトンとして、アタシを見た。


「まあ、アタシ泳げないってことは知ってるよな。だからさ、泳ぎ方を教えて欲しいんだよ。」


「いいよ。」


 リューは優しく微笑んで言った。

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人魚の水しぶき 枷羽 @Kaseiazuki115

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