翡翠の螽斯

安良巻祐介

 机の片隅に、文鎮代わりに置いてある、玻璃で出来た一匹の螽斯きりぎりす

 掌に収まる程しかないそれは、実際のところ、文鎮としての用を果たしているかは怪しい。

 涼しい翠色に透き通った、その小さなからだの下にある紙束――言の葉を縦横に書き散らされ、黒いまだらの染んだ積雪。

 それは、紙とインク以外にも、この書斎の中に凝った、独居者の益体もない愚痴や溜息、夢想などを吸い込んで、常に細かく蠕動している。

 ふと風でも吹こうものなら、その質量も、その痙攣も、小さな玻璃の蟲の重みでは到底抑えきれず、かの稲生家に起きた紙舞の怪の如く、好き勝手にあちこちへと崩れようとする。

 だからいつも、懐に冷や鉢を抱いたまま、肩肘や手先で以て、机の上を抑えつけてやらねばならない。

 つまるところ、螽斯は何をするでもなく、そこに踞っているばかりだ。

 けれど、仕事のない小さな蟲が、無用の長物かと言えば、決してそうではない。

 その小さく軽く、実のない有り様こそが、彼がこの机の端に座を占めている理由なのだ。

 冷たい玻璃の体で、伸ばせぬ脚を曲げている彼は、野にある同胞と違い、耳に届く歌を奏でることはないが、窓から差す日光が彼の透き通った体を通し、翠の波形となって、煌煌きらきらとした襞を揺らめかせる時、それは耳ではなく目を通して私の詩想を刺激し、幾つもの夢想を遊ばせしむ楽の音となる。

 他に何の道具としての用も果たさぬがゆえに、その音色は純粋無垢の輝きを得て、涼やかに私の心を打つ。世のしがらみから放たれた、無縫天衣の表れとして心を慰める。

 私は紙が飛ばぬよう、肘で抑えながら、その音楽を眼で楽しみつつ、思うまま筆先を走らせる。

 寓話の螽斯は、夏の謳歌を終えたのち、冬の訪れによって教訓的に天に召されたが、我が螽斯氏は生憎と、どれだけ冬が寒かろうが、その心臓を止めることはない。

 私のある限り、彼はこの穢土の一角の、ちっぽけで埃臭い一書斎の中で、永久に私のための楽を奏で続けるのである。

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翡翠の螽斯 安良巻祐介 @aramaki88

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