我慢しいだった彼女

久野真一

最期に残した言葉

「朝は、ほんと冷えるなあ」


 窓際から外を眺めながらそうぼやく。外は雲ひとつ無い晴れだけど、寒いものは寒い。季節は真冬で、北関東にあるここでは、最低気温が0℃を下回る事もある。


 俺は冬崎善治ふゆさきよしはる。何の変哲もない、ごく普通の高校一年生だ。これと言って打ち込めるものもないけど、それなりに楽しく日常を過ごしている。そして、なんといっても、最近は―


【また明日。会えるのを楽しみにしてるね♡】


 からのメッセージと、待受画面まちうけがめんの写真を見て、ついにやにやしてしまう俺。彼女とはいっても、付き合っているわけではなくて、まだデートを三回程しただけなのだけど、昨日のデートは上々だった。


 彼女の名前は、春山うららはるやまうらら。高校に入学した時からの友達で、俺の想い人だ。彼女と知り合ったきっかけはささいな事だ。高校に上がって、数学の授業についていけなかったのを助けてくれたのだった。


 少し小柄で短く切り揃えた髪、垂れ目で、ほわわんとした印象を感じさせる彼女は、茶目っ気のある言動や誰にでも気さくに話しかける性格で皆の人気者だった。


 ふと、うららと出会った時の事を思い返す。


◇◆◇◆


「無限集合とか何だよ。わっけわかんねえ」


 放課後、誰も居ない空き教室で、一人、俺は頭を抱えていた。高校に上がって、数学の内容は少し……いや、かなり難しくなった。今、俺の頭を悩ませているのは、偶数の定義についてだ。偶数は


「A={x|x を2で割った余りが0である}」


 と言う風に定義されるらしいのだけど、意味がさっぱりだ。俺の頭の中にある集合といえば、ベン図で示されるようなわかりやすい図であって、要素が無限にある集合などという聞いた事がない概念を教えられて、頭がパンクしそうだ。


 だいたい、無限集合ってなんだよ。そんなものがこの世にあるのか?そんな事を考えながら、図にして理解しようと試みるけど、なかなかうまく行かない。


「あれ、冬崎君。何たそがれてるの?」


 唐突に後ろからかけられた声にビクっとして振り向くと、そこに居たのは同じクラスの春山うららだった。


「ああ、春山か。びっくりさせないでくれよ……」


 誰も居ないと思って、この教室でひっそりと勉強していたのに。


「それくらい、いいじゃない。で、何悩んでたの?」


 無邪気にそうたずねてくる春山。まだ、俺と言葉を交わしたのは数える程なのに、全く物怖じした様子がない。こういうのが、コミュ力という奴だろうか。


「数学だよ、数学。今日、授業で習った範囲を復習してたんだ」

「冬崎君、すっごい真面目なんだねー」


 単にわからないから悩んでいただけなのだけど、彼女は心底からそう思っているように見えた。


「別に真面目って程でもないよ。ついていけなくなるのが怖いだけだし」


 必死で、という程ではないけど、頑張って合格したのだから、授業で置いてけぼりになるのが怖いだけだ。


「それを真面目って言うんだけど。で、どこがわからないの?」

「いや、その、恥ずかしいし……」


 授業でどこがわからないというのを話すのがどうにも恥ずかしいという気持ちがあって、躊躇ちゅうちょする。


「いいから話してみてよ。私でもわかるかもしれないし」

「わ、わかったよ」


 仕方なく、悩んでいる所とメモした図を見せる。


「あー、なるほど。ここは悩むよねえ」


 ふんふんとうなずく彼女。彼女には俺が悩んでいるところがわかったらしい。


「さすが優等生。頭いいな」


 授業で当てられたとき、いつも彼女は適切な答えを出していた。だから、なんとなく「優等生」と言ったのだけど、彼女は少しムっとした様子だった。


「ねえ。私が、最初から、勉強出来たと思ってる?」

「いや、そういうつもりじゃないけど……でも、頭の出来が違うだろ」

「そういう決めつけは良くないよ、冬崎君!」

「でも、俺が悩んでるところ、瞬時にわかっただろ?」

「私だって、ちゃんと勉強時間は取ってるよ」


 そう言い返される。


「じゃあ、今回の範囲はいつ勉強してたんだよ」

「う。そんなの、どうでもいいじゃん」

「どうでもよくないって。もし勉強してたなら、お前だって真面目じゃん」

「真面目じゃないってば」


 そんな言い合いの果てに、彼女が白状した事実は単純で、毎日寝る前にきっちり予習の時間を1時間取っているということだった。


「そんなの隠すことないだろ。俺はスゲーと思うぜ」


 素直な感想を告げた俺だけど、


「だって、頑張ってたの表に出すの、恥ずかしくない?」

「いや、別に恥ずかしくないだろ。自意識過剰だって」

「そうかなあ」

「そうだって。もっと、自分に自信持てよ」


 優等生だと思っていた春山が意外に小心者だった事を知って、親しみが湧いたのだった。


 それをきっかけに、俺と春山はよく話すようになったのだった。


◇◆◇◆


 それが去年の春だったか。裏で努力しながら、表では何でもないように振る舞うそんな彼女に惹かれるのに時間はかからなかった。


 そして、仲良くなった後、わかったのだが、うららは意外に……というか、かなり色々な事を我慢しているらしい。


 二人きりになった時は、よく友達関係の愚痴を零すし、お祖母さんが厳しいことも。彼女は、早い内に両親を亡くして、お祖母さんに育てられたのだが、かなり厳しく躾けられていたらしい。曰く、「もっと我慢しなさい、うらら」が口癖だとか。


 二人きりになった時にだけ零す愚痴は、俺が彼女の特別になれた気がして、誇らしくなったものだった。


 それから、彼女とは色々な行事を共にした。夏には、うららや友達と海に行ったり。あるいは、文化祭では、率先して実行委員を引き受けた彼女と一緒に頭を悩ませたり。


 そんな日々が続いた冬のある日。意を決してデートに誘った俺に、とても嬉しそうにうなずいてくれたのだった。


(昨日、絶対、いい感じだったよな)


 自惚れじゃないけど、別れる間際の「待ってるからね」という言葉やラインの反応を見る限り、あと一押しで行ける、そんな気持ちがあった。


 早くうららが来ないかな、とそんな事を思っていたのだが、ホームルーム間際になっても来る様子がない。ひょっとして、風邪でも引いたのか?


 ガラリと扉を開けて、担任の先生が入って来る。あー、こりゃ、絶対風邪でも引いたな。


(放課後、お見舞いに行ってやろう)


 そんな事を考えていた。しかし、今日はなんだか担任の先生の雰囲気が違う。重苦しいというか、暗いというか。何かあったんだろうか。


「ホームルームの前に、皆さんには、大変残念なお知らせをしなければいけません」


 涙声で話す担任の先生こと、ゆきちゃん先生(名前は雪音先生と言うが、親しみを込めてそう呼ばれている)。


 ゆきちゃん先生に限らず、担任の先生が泣くなんてよっぽどのことだ。一体何があったのだろう。固唾を呑んで見守る。


「私達のクラスの、春山うららさんですが……」


 うらら?一体何があったのだというのだろう。急速に嫌な予感が湧き上がってくる。


「今朝、午前5時頃にお亡くなりになりました」


 一瞬、ゆきちゃん先生が言っている言葉が信じられなかった。オナクナリ、という言葉が頭の中でうまく変換できない。


「え、えっと先生。うららちゃんはなんで……」


 うららと仲の良かった女子生徒が、途切れ途切れに質問をする。彼女も、あまりにあまりなお知らせに呆然としているようだった。


腸捻転ちょうねんてん、だそうです。昨夜、救急車で病院に運ばれて、そのまま……」


 涙を堪えなから話すゆきちゃん先生。腸捻転。聞いたこともない病気だ。


「明日、春山さんの告別式がとりおこなわれます。場所は……」


 葬式の場所と時間が伝えられる。まるで実感がわかない。なんで、どうして。


 最後に、ゆきちゃん先生が言った、


「最後のお別れになりますから、出来るだけ出てあげてください」


 そんな言葉が心に残った。


◇◆◇◆


「うららちゃん、最期まで我慢して、自分からは救急車呼ばなかったんだって」

「お祖母ちゃんに聞かれても、「お腹が痛いだけ」って言ってたんだって。凄いけど、痛々しいよね」

「うららちゃん……もう会えないのかな」


 そんなひそひそ話をするのが聞こえてくる。それは、昨日の俺も、お通夜つやで、彼女のお祖母さんから聞いた話だった。


 列に並びながら、俺は、彼女の死を実感できないでいた。今もこうしていると、


「あれ?皆、私の話なんかして、どうしたの?」


 なんて、棺桶から起き上がって来そう、と思ってしまうくらいに。


 そして、列が進んで、俺が花を添える番になる。棺桶に寝かされた彼女は、生前と変わらない整った容姿をしているけど、ぴくりとも笑う様子がない。それに、全く生気がなくて、ああ、うららはもう生きてはいないのだと、ようやく実感が湧いてくる。


 別に告白できなかったとか、そんなことはもうどうでも良くて、仲の良かった、あのうららともう二度と会えない事がただただ悲しかった。


◇◆◇◆


 うららのお葬式から数日後。俺は、彼女が生前住んでいた家に向かっていた。彼女のお祖母さんから、渡したい遺品があるという話を受けての事だ。


 そう言われては向かわないわけには行かなかったけど、また彼女の死を実感するのが怖くて、少し気が重かった。


「ほんとに、ありがとう。いつも、うららにいつも良くしてくれて」

「いえ、ほんと。何もできませんでしたから」


 それは本音だった。だって、いつも愚痴をこぼしている時のように、、うららが生きていた未来もあったかもしれないのだ。


 実際、腸捻転で手術がうまく行く確率は、症状が出てから早い内の方が飛躍的に上がるらしい。お祖母さんによれば、様子がおかしかったのは、午後7時で、救急車で運ばれたのが午後10時らしいから、三時間近くも我慢していた事になる。


 なんで、彼女は、誰にも言えなかったんだろう。そんな事を思ってしまう。


「「善治君へ」とあったから、きっと、あの子からの手紙だと思います」


 そんな言葉と共に、封筒に入った手紙を受け取り、彼女の家を後にしたのだった。


◇◆◇◆


「親愛なる善治君へ」


 彼女からの手紙はそう始まった。


「これをあなたが読んでいるのなら、たぶん私は死んでいるんだろうね(笑)」


 (笑)なんて付けているが、実際に死んだ今となってはとても笑えない。


「本当に、ただの腹痛だと思うから、心配しすぎだと思うんだけど」


 と手紙は続く。ということは、書いている時も、別に本当に死ぬとは思っていなかったのか。


「万が一の事を考えて、遺書を書いておくことにしました」


 そんなのを書く暇があれば、救急車を呼べば良かったのに。やりきれない。


「「あ、さっさと救急車を呼べば良かったのに」と思ってそうだから、先回りしておくよ。正直、すっごくお腹が痛いんだけど。でも、ただの腹痛かもしれないと思うと、呼べないよ」


 そういえば、うららはそういう奴だった。表面的には何もないように振る舞っても、色々と我慢して。


「今もすっごくお腹が痛いんだけど、えーと、何書こうかな」


 読み進めると、やっぱり救急車呼べよ、という気持ちがこみ上げてくる。少し、可笑しくて、悲しい。


「あ、そうそう。まずは、今日のデートの事」


 うららにとって、デートは「今日」の話なんだという事に気がつく。


「正直、告白を期待していたので、肩透かしでした。って偉そうだね」


 読んでて、ほんとに偉そうだな、と思った。というか、そんなに俺は煮えきらなかったのか。


「そんな事言うなら、私が告白しろ!って思うんだけど、また今度でいいかな、とついつい先送りにしちゃった」


 遺書でまで、変なノリツッコミしないでいいのに。でも、なんだか、デート当日の思い出が蘇ってくる。


「というか、そもそも、私の片想いだった……なんてオチじゃないよね?」


 ああ。片想いじゃなかったよ。


「と、ノリツッコミはこれくらいにして、本題に入りたいと思います」


 遺書でまでそんなギャグを仕込むのは、ほんとに笑えない。急に文体が変わる辺りも、芸が細かい。


「変な前置きをするのは苦手なので、簡潔に言います」


 続いて、


「私は、あなたの事が大好きでした」


 でした、と過去形なのは、遺書なのを意識しているのだろう。彼女は、どんな気持ちで、どんな痛みを抱えて書いていたのだろう。


「正直、死んでから想いが伝わるとか、あまり趣味じゃないんですけど」


 ほんと、そうだ。今も、好きでいてくれた嬉しさより悲しさの方が強い。


「なんで好きになったのかは、色々あります。たとえば、努力してるところを見せないように、こっそりと色々やっていたところとか。初めて数学を教えてあげた時もそうでした。」


 うららはそう言うが、こいつの方こそええかっこしいだったのではないかと今では思う。


「それと、友達やお祖母ちゃんについての愚痴を静かに聞いてくれたこと」


 確かに、二人の時は、ほんとに色々愚痴ってたなあと思い出す。


「特に、お祖母ちゃんは厳しかったので、ほんとに助かりました。色々」


 そう感謝の言葉が述べられる。こんな俺でも、少しは助けになれていたのかな、と思うと少し涙が出てくる。


「あ、でも、お祖母ちゃんが嫌いというわけじゃないですよ、念のため」


 そんな事を念押ししなくてもいいのに。別に、愚痴ってはいても本当に嫌いじゃないのは、生前から伝わって来ていたし。


「あー、もう、何書けばいいんでしょうね。死ぬ実感がないので、あまりいいことを書けないのでしょうか」


 遺書でセルフツッコミを書いている様子を想像する。


「他にも色々あるのですが、とにかくあなたの事が大好きでした。以上、終了!」


 唐突な終了宣言に、笑いがこみ上げてくる。ほんとは、凄く痛かっただろうに、そんな自分の状態を茶化しながら、手紙を書く精神力には脱帽する。もっとも、その分を自分が生き延びるために使ってほしかった、とやっぱり思う。


「P.S. 私が死んだ時に誰かが泣いてくれたら嬉しいなと思いますけど、あまりおおげさなのは趣味じゃありません」


 便箋の下の方に追伸があった。


「正直、まだまだやりたい事もあったし、キスとかエッチとか色々経験してみたかったのですけど(もちろん、相手は善治君ですよ?)、不幸にも叶うことはなさそうです。だから、ちょっとだけ泣いて、それから笑い飛ばしてもらえれば、と思って、手紙をしたためてみました。人生、終了する時はあっけないものだと思ます。私の両親のように。だから、時々でも思い出してくれれば幸いです。親愛なる善治君へ」


 そうして、追伸は締めくくられていた。一見達観してるように見せてるだけで、きっと、泣きそうだったのだろうけど。


 遺書でまで我慢するなんて、ほんとに彼女らしい。そう思うと、自然と涙がこぼれ出てくる。


 俺は、死後の世界とか神様なんてものは信じていないけど、もし、そんなのがあるとしたら。きっと、あの世で笑って生きてるのだろうな。そう思えたのだった。

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