第15主題 月島ヒナノさんと話す

 先生。久し振りの読み間違いのき目に遭い、笑えてしまった。


月島ツキシマヒナノさんですね? 僕の名は、では、ありません」


 笑った後に、間違いを正す。


「でも皆、さんきち先生と呼んでいますよ。そしてね、さんきち先生に当たったらラッキーと。お怒りにならず甘々あまあまの単位をくださるって……私、話し過ぎました。ごめんなさい」


 月島ヒナノさん。大変ににぎやかで個性的な、お嬢さんだ。何処どこから「逢坂三吉おおさかみよし」という本名が流布したのか分からないが、生徒のあいだで「さんきち」と呼ばれて軽く見られていることが分かり、このまま軽く見られていようと決めた僕は、クロード・アシル・ドビュッシーの伝記をひろげる。


「ドビュッシーは良い音楽を作ったけれど、生きざまは尊敬に値しないよね」

われてみれば、そうです。不倫は感心できません」


 生徒はピアノ椅子に、僕は背凭せもたれのある椅子に掛けて話す。


「音楽にも女性にも自由だった。なんて云うと、ドビュッシーの肩を持つようだね。軽蔑するかい?」

「いいえ。3人目の女性で、ようやく落ち着いたのですわ」

「落ち着く時期だったのかもしれないね。そして、娘が生まれて」

愛嬢シュシュの、お誕生日に、の曲を捧げた」


『こどもの領分』を出版する前に先駆けて。アーティストがアルバム発売以前に、自信作を単独で発表するかのようなカタチで。


「よく御存知ごぞんじだ。では聴かせてください。小夜曲さよきょくを」


 ヒナノさんは弾いた。

『人形へのセレナード』と云う、簡単そうに見えて実は高水準にある曲を。教授陣には存在を軽視され、

「あぁ、ドビュッシーね」

 と、価値を未だ新しいと云う理由で認められない傾向の、当音楽大学院では圧倒的不利な一曲を、僕との授業で、卒業のための単位を取る授業で、チャレンジしてきた。


 とにかく速く軽く弾かれることが多い中、何だろう。不思議な弾き方だ。


 少しスローで、音の粒は最小限に小さく、フォルテと書かれた箇所すら控えめにソフトペダルを踏む。完璧に自制した小夜曲さよきょくだ。自己主張しないセレナードだ。


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